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平成26年度卒業式学長式辞

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2015年4月10日更新

平成26年度学部卒業式「学長式辞」

                                                               学長 赤井益久
 

 第123期卒業生の諸君、ご卒業誠におめでとうございます。また、ご家族の皆様にもお祝いを申し上げ、これまでのご支援に厚く御礼を申し上げます。諸君が大学の門を叩いた四年前の春、すなわち平成23(2011)年の3月11曰午後2時46分に、わが国にとつて、未曾有の「東日本大震災」が発生しました。震度7(マグニチュード9.0)死者15,891人、行方不明2,584人の犠牲者が出た空前の大災害でした、どす黒い津波が、大地を呑み込み、多くのかけがいのない生命を奪い去り、大事な自然を傷つけ、多くの爪痕を残しました。今でもその記憶が消えることなく残っています。

 その後の余震や交通の混乱、停電、電力消費の節約などの影響で’諸君の大学入学を祝う入学式も中止のやむなきに至り、修学上のご不便もおかけしました。

 大自然の脅威を目にした諸君は、我々にとって何ができるのか、どんな役割を果たすことができるのか、それらを痛感されたことと思います。大自然に比べ我々の力はいかにも小さく、大自然の前では、微少な存在のように思われます。また、学問は何のためにあるのか、どんなことができるのか。ややもすれば無力感に苛まれ、途方に暮れた人も多かったと思います。大学の生活は四年で一区切りをつけます。若い諸君にとっての、この四年間は人生のうえで大事な時間です、これから十年後の時間の流れと同じではありません。また、東曰本大震災が発生した日本列島の東北地方は、日本列島の中でも、とりわけ信仰心が厚く、曰本文化の基層を形成してきたことも指摘され、伝統文化の毀損をも危惧されました。

 震災が、もし我々に何かをもたらすとすれば、震災によって失われたものの中から、あるいはそれを期に気づかされたものの中から、新たなものを得ようとする努力であるように思われます。

 東日本大震災の折に、海外のメディアが報じたことの一つに、日本人の災害時における徳性の高さがありました。混乱時にも理性を失わず、秩序正しく、他人に対して思いやりをもち、全体が整然としていたというものです。我々日本人にとって、それはとくに自覚したものではなく、自然と身についた振る舞いであり、考えでありました。しかし、こうした振る舞いや行動こそ、いわば、日本文化の基盤に横たわっている持質であり、日本人の大事にする価値観や行動規範であると言えます。なぜそのようなことが可能であったのでしょうか。日本人は絶えず、他者を慮り、次に使う人、次の世代を考えて行動するのが発想の底辺に横たわっており、それが習わしになっています。祖先がしてきたこと、父母がしてきたことを自分もする。そのような考えが、災害時にも混乱を招かなかった背景にあると考えられます。

 こう考えてきますと、日本人の特質とは何なのかを考えざるを得ません。卒業するに当たリ、来し方を振り返り、行く末に思いを馳せることは、将来を有意義に過ごすには欠かせません。

 諸君が学んだ國學院大學は、明治15年(1882年)に設立された皇典講究所を母体としています。その設立時、初代総裁の有栖川宮幟仁親王が「告諭」を宣言されました。それには、「凡ソ学問ノ道ハ本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ 故ニ国体ヲ講明シテ以テ立国ノ基礎ヲ鞏クシ 徳性ヲ涵養シテ 以テ人生ノ本分ヲ尽クスハ 百世易フベ力ラザル典則ナリ」と宣言されています。これを言い換えれば、およそ学問はその根本を究めることが大事である、その根本とは、日本という国柄を明らかにし、その国柄を支えている根本を見極め鞏固にすること。また、人それぞれが持って生まれた個性を輝かせて、人生の本分を尽くすこと。それこそが永遠に変わることのない規範であると指摘されています。この告諭を、國學院大學の建学の精神と位置づけしています。諸君は、卒業するに当たり、この精神を今一度かみしめていただきたいと思います。

 また、國學院大學は、その寄附行為によって「神道精神」による教育と研究を標榜しています。ここに言う「神道精神」とは、自己点検・評価活動によって、「日本人の主体性を保持した寛容性と謙虚さ」という現代的な解釈を与えています。文化の多様性が指摘される現在、また近代思想が直面する多くの困難や矛盾に対して、それぞれの国家や民族の持つ主体性と「寛容性」「謙虚さ」がいかに関わるのかに関心を寄せる必要があります。なぜならば、諸君のこれからの未来を切り開く鍵があるように思えるからです。

 建学の精神である「告諭」が指摘する、曰本文化の究明と個人の徳性がいかに関わるのか。これからの諸君の前には多くの可能性と、同時に多くの困難が待ち受けていると思います。その時の課題の克服は、その時々の「人」がしなければなりません。重要な判断や重い決定は、「人」がします。その時に役に立つのが、この四年間の学修の成果であるはずです。他者を慮り、他者に寛容であって、他者への共感をもち、他者を利することができるのは、教養ある「人」にしかできません。我々が探求する日本人の文化的特質や行動規範は、図らずも災害時において顕現したのかもしれません。

 日本文化の究明をその使命とする國學院大學にとって、グローバル化が叫ばれる現在、単に日本人の美徳や品位が優れたものだと言うつもりもありません。それは独善的かつ自己陶酔に陥る危険性があるからです。学問は、たえず批判的検証を忘れず、新たな価値の創造に努めなければならないからです。

 東日本大震災がもたらしたものの一つに、自然への脅威とともに畏怖や畏敬を感じた人もいるでしょう。人間の力は限定的であり、それに奢ってはいけない。謙虚に自然と対峙しなければならない。そう考える時、まず我々は、我々が生きる世界での空間軸と時間軸を認識する必要があります。いま、諸君の旅立ちに際し、それを確認しておきたいと思います。

 神道には、「中今(なかいま)」という言葉があります。『続(しょく)日本紀』の中の「宣命(せんみょう)」に四力所出て来る言葉です。一般的には、過去、そして未来の中間にある「今」を指していると考えられます。この「中今」の解釈には、古来いくつかの説があります。本居宣長は、これを一語と解釈して「今をいふなり」ととらえています。また、西田長男は、「始」「中」「今」、つまり、時間の流れを大きく三区分し、その二つを併せてできたと言う説を展開しています。

 この言葉は、きわめて日本人の歴史観や時間論を表していると思われます。國學院大學で長らく神道学の教鞭を執られた、平井直房博士は、この言葉に現代的な解釈を与えています。

 まず、「中」と「今」を分ける西由説は、分割使用の例がないことを挙げて批判し、山田(やまだ)孝雄(よしお)の宣長説を発展的にとらえる「時間の永遠の流れという思想と、その時間の永遠の流
れの中に現在というものが中心点として存するものであるという思想を含んでいる」また、「哲学的に見れば、時間の実在性は現在という一点により支持せられ、その現在が永遠の流れをなすことと考えることによりて、時間の実在が認識される。」とする説を発展継承し、以下のように指摘されておられます。

 「悠遠な時間の流れの中に現在が中心点として存在しており、太古の昔から計り知れない未来までの持続の全てが、現在の瞬間に重みをかけている。」と解釈され、現在という時間の意義が、過去と未来を繫ぐだけではなく、よりその時その時の重さに留意すべきであるとしています。

 また、「悠久な歴史と自分自身の出会いの場である一刻一刻の今をカーぱい生き、自己に許された生活の時を出来るだけ価値あらしめようとする生活態度である。」と指摘されており、より現実の生活態度に根ざした考え方を披瀝されており、傾聴すベき解釈であると言えます。

 我々は過去にさかのぼり、過去を生きることはできません。また、未来を先取りして生活するわけにもいきません。過去に学び、現在をより良く生きることを通して、未来がいかにあるべきかを想定して生きるほかありません。

 諸君は定められた課程を修了し、卒業されます。初心に立ち返り、それを思い起こしていただきたい。そうすることが、これからをより良く生きることにつながると考えるからで
す。

 卒業生諸君とともに学問の力を信じ、諸君の未来が、より良い今の延長線上にあること、また、ますますの活躍を祈念して学長式辞と致します。

                                                                    以上

                        (平成27年3月22日 グランドプリンスホテル新高輪「飛天」において挙行)
 

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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