学校法人國學院大學は、明治15年(1882年)に皇典講究所が設置されて以来、建学の精神に則り、諸学の理論ならびに応用を攻究教授し、有能な人材を育成するため、大学の発展・拡大に努めてまいりました。本校の歴史を写真と共に紹介しています。
國學院大學の母体「皇典講究所」創立。初代総裁は有栖川宮幟仁(たかひと)親王、場所は東京・麹町区飯田町(現・千代田区飯田橋)。9月1日、授業開始。11月4日、開校式。ここに本学は晴れの第一歩を記す。
皇典講究所飯田町校舎(明治末期)
皇族/皇典講究所初代総裁
1812–1886
皇位継承資格を有した四親王家の一つである有栖川宮家の第8代当主。明治天皇の書道師範にして、その功績により一品に陞叙、また「五箇条の御誓文」の正本の揮毫を担う。明治初期に神祇事務総督、明治14年(1881)に神道教導職総裁を務めるなど神道と所縁が深く、明治15年2月、神道界の人材育成および日本の古典研究に資するため皇典講究所の初代総裁に就任し、その創立と維持・発展に尽力した。同年11月4日の同所開校式において賜った、日本の「国柄」を明らかにし(「国体ヲ講明」)、「人柄」を養い育む(「徳性ヲ涵養」)ことにより、伝統文化に基づいた日本の根本を究める(「本ヲ立ツル」)という告諭の精神は、國學院大學における「建学の精神」の基礎をなしている。
有栖川宮幟仁親王告諭
華族/候爵/皇典講究所初代副総裁
1815–1903
久我家は、村上源氏の嫡流で五摂家に次ぐ清華家の随一の家柄で、建通は同家第34代当主。賀茂別雷神社・賀茂御祖神社の大宮司を担い、明治15年(1882)に皇典講究所初代総裁である有栖川宮幟仁親王より召されて初代副総裁に就任し、以後明治36年の薨去まで、長きにわたり皇典講究所・國學院の発展に尽力した。なお、後に久我家伝来の文書群である「久我家文書」が昭和6年(1931)以降3回にわたって國學院大學に寄託され、昭和26年に寄贈となり、昭和63年には文書の大部分に当たる2,461点が国の重要文化財に指定された。
旧飯田町校地の場所(現在の地図をもとに作成)
政治家/候爵/皇典講究所長・國學院長
1830–1910
土佐国(高知県)出身。同郷の坂本龍馬と親交をもち、勤皇の志士として尊皇倒幕運動に参加した。明治維新後は政治家として活躍したほか、皇族の御養育掛を担うなど、明治天皇より厚い信頼を受けた。明治29年(1896)、皇典講究所長・國學院長に就任して、経営再建とともに教学の充実を推進した。なお、継嗣の高美は高行とともに皇典講究所・國學院の発展に尽力し、孫である行忠も昭和の戦前・戦中・戦後を通じて皇典講究所長や國學院大學理事長・学長を務めた。佐佐木家三代の旧蔵書が國學院大學図書館に寄贈され収蔵されている。
明治33年から始まった神職講習会を改め、神職養成部(神職教習科・神職講習科・祭式講習科)を 開設。
皇典講究所同窓生の会である「水穂会」が発足。國學院大學の同窓会である國學院大學院友会は、この水穂会発足を創始とする。
7月、「皇典講究所」を母体として、国史・国文・国法を攻究する教育機関「國學院」が誕生(本科3年・研究科2年)。「國學院」の名前が歴史上に初めて登場する。
政治家/伯爵/皇典講究所初代所長
1844–1892
長門国(山口県)出身。14歳の時に吉田松陰の松下村塾に入門し、松蔭が死刑となった後は高杉晋作らと尊皇倒幕運動を展開した。特に大村益次郎より西洋兵学を学び、明治維新後は近代兵制の整備を行った。明治7年(1874)以降は司法大輔や司法卿を歴任するなど近代法制度の確立に尽力し、明治18年の内閣制度導入にともない、初代司法大臣(現、法務大臣)に就任した。この間の明治15年、内務卿として皇典講究所の創立に関与し、明治21年には皇典講究所において立憲政治における日本文化の重要性を説いて、翌22年に皇典講究所初代所長に就任した。明治23年に「國學院設立趣意書」を公表して、同所を母体とする國學院の設立を導いた。
国学者/皇典講究所幹事
1852–1893
備後国(広島県)出身の国学者。明治5年(1872)に立志上京して平田篤胤の継嗣銕胤の学僕となった。神道事務局生徒寮や神宮教院本教館といった神道・国学の研究教育機関の創設に携わり、明治15年の皇典講究所創立時に創建係として開校のための諸務に従事し、明治23年には皇典講究所初代所長山田顕義を補佐して「國學院設立趣意書」を起草するなど、國學院設立にも主要な役割を担った。また創設の後も、皇典講究所・國學院の運営実務の中心人物として、その維持・発展に尽力した。松野の歿後30年に当たる大正11年に伝記『松野勇雄先生』が、國學院第一期生で國學院大學教授の三矢重松により上梓されており、そこでは「我が皇典講究所・國學院大學の続かん限、先生の御名は絶えじ、先生の功は朽ちじ。」と讃えられている。
政治家・官僚/子爵
1844–1895
明治政府の政治家・官僚として、大日本帝国憲法・明治皇室典範・教育勅語の起草をはじめ、日本の近代化における様々な政策や法制度の整備に寄与した。山田顕義とともに皇典講究所において立憲政治や国民教育の基礎は国典講究にあると演説し、「國學院設立趣意書」の修正に携わるなど、草創期における皇典講究所・國學院の展開に重要な役割を担った。また、井上の旧蔵資料群である「梧陰(ごいん)文庫」(「梧陰」は井上の号)が、昭和32年(1957)に井上家継嗣より國學院大學図書館に永久寄託(昭和58年に寄贈)され収蔵されている。
4月、専門学校令により専門学校に昇格、「私立國學院」となる(大学部予科2年・本科3年)。
6月、文部省告示により「私立國學院大學」と改称、大学組織となる。
4月15日、大学令により大学に昇格。私立大学として最初に認可されたのは、本学の他に、慶應義塾・早稲田・明治・中央・日本・法政・同志社の7大学。
大正時代の渋谷校舎
文学者
1872–1924
明治23年入学・明治26年卒業の國學院第一期生。卒業の後、文部省(現、文部科学省)に入省するも辞職し、教育者の道に進む。柔道家で教育者の嘉納治五郎が開いた亦楽書院で中国人留学生の教育につとめながら、國學院の講師を兼ねた。大正7年に東京高等師範学校(現、筑波大学)教授となり、その2年後には國學院大學教授に就任した。国語学を中心に数多くの研究を発表し、いわゆる「三矢文法」を確立した。大正12年に「古事記に於ける特殊なる訓法の研究」により、國學院大學第一号の文学博士を授与される。折口信夫や武田祐吉らを育て、國學院大學の国文学の礎を築いた。
三矢重松教授の授業風景(大正5年)
学生数も増え、大規模な学園拡充計画を5年前から進め、5月には渋谷御料地(現在地)に新校舎が完成。6月、授業を開始。9月、関東大震災に被災するも、翌13年に復旧するとともに、校歌・校旗を定める。以後、昭和10年代にかけて本学は発展の一途をたどる。
校舎復旧記念絵葉書
昭和2年開館の図書館
文学者
1867–1927
国学者の家に生まれる。ドイツに留学し、帰国後、国学にドイツ文献学の方法を取り入れて、近代国文学研究の基礎を築いた。「国文学の父」とうたわれる。東京帝国大学(現、東京大学)教授をつとめ、明治36年に文学博士の学位を取得、後に東京帝国大学名誉教授となった。大正7年に國學院大學学長に就任し、大正9年の大学令大学への昇格や、大正12年には飯田町(飯田橋)から現在地となる渋谷への校地移転を果たした。國學院大學校歌の作詞者でもある。昭和2年、勲一等瑞宝章を受章。今日「國學院中興の祖」の一人と仰がれ、胸像が正門を入って左手にある。
渋谷校舎全景(昭和10年代)
教育者
1875–1960
明治28年卒の國學院第三期生。日本倫理や国民道徳を講じ、國學院大學の運営実務にも携わる。学監であった杉浦重剛の推挙により皇族の御養育に当たり、昭和11年には東宮傅育官(とうぐうふいくかん)として、今上陛下の御養育を担った。終戦直後の最も混迷した時期に國學院大學理事長・学長となって、その維持・発展に尽力し、退任後に名誉学長の称号が贈られた。今日「國學院中興の祖」の一人と称され、構内に胸像が設けられている。
民俗学者
1875–1962
日本民俗学の創始者。農商務省に入り、内閣書記官記録課長、貴族院書記官長を歴任する一方、民間伝承に焦点を当てた『遠野物語』を発表し、最初の民俗学雑誌『郷土研究』を創刊した。官僚を辞した後、朝日新聞社客員論説委員をつとめ、一時期、国際連盟常設委任統治委員会委員としてジュネーヴに滞在した。昭和26年に文化勲章を受章、同年に國學院大學大学院文学研究科教授となり、神道を講じた。
民俗学者
1887–1953
日本民俗学に独自の境地を開き、その学問は「折口学」と称される。幼年期から詩歌・歌舞伎などに親しみ、國學院大學在学中は三矢重松に師事した。その後、柳田國男の高弟となって民俗学を志し、その学風は国学に民俗学の研究法を合わせて、古代から現代に至る日本人の心の伝承を捉えようとするものであった。大正8年に國學院大學講師となり、のちに教授に就任、昭和3年からは慶應義塾大学教授も兼ねた。釈迢空(しゃくちょうくう)の名で短歌・詩・小説などの創作活動もひろく行った。
大学院日本史学専攻修士課程を開設。「考古学資料室」を開設(昭和30年の文部省告示で博物館相当施設に指定される)。
「國學院大學幼稚園教員養成所」(現「國學院大學幼児教育専門学校」)を設立。「日本文化研究所」を創設。
考古学者
1899-1975
國學院大學の出身で、戦前、神社を管轄していた内務省神社局に入り、全国の神社や祭祀遺跡を調査・考証した。その傍ら國學院大學講師をつとめ、戦後は教授として、國學院大學考古学研究室の基礎を築いた。静岡県登呂遺跡などの調査を行い、東京都宇津木向原遺跡では遺構に「方形周溝墓」と命名した。また折口信夫や宮地直一との交流を通じて、考古学に民俗学や神道史学の学問手法を取り入れた「神道考古学」を唱導した。
法学部第二部を開設。「折口博士記念古代研究所」を設立。その後、「武田博士記念室」(41年)、「河野博士記念室」(45年)を開設。
渋谷校舎(昭和44年当時)
幼稚園教員養成所(各種学校)を幼児教育専門学校(専修学校)に改組
百周年記念館が竣功。神奈川運動場に新石川校舎を建設。
発祥記念碑
創建当時の神殿
11月4日、高松宮宣仁親王殿下台臨のもと創立50周年記念式典を挙行。
創立50周年記念式典
国語学者
1882–1971
アイヌ語研究の先駆者。樺太・北海道で現地調査を行い、アイヌ民族の言語・文学・民俗を体系的に研究して、昭和7年に『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』により学士院恩賜賞を受賞した。また晩年には『アイヌ叙事詩ユーカラ集』をまとめている。國學院大學では、明治41年より言語学・国語学を講じ、大正11年に教授に就任した。昭和29年に文化勲章を受章。歌人の石川啄木は旧来の親友で、回想記『石川啄木』を著している。横溝正史の小説に出てくる探偵「金田一耕助」の名前のもとにもなっている。
神道学者
1882–1963
埼玉県玉敷神社の神主の家に生まれる。國學院大學卒業後も、教鞭を執り、昭和10年に國學院出身者としては初めて國學院大學学長に就任した。神道学の権威として、神道の思想や信仰・道徳を中心に数多くの研究を発表している。その研究を支えたのは、自ら収集した膨大な蔵書であり、亡くなった後、遺族により國學院大學に寄託・寄贈された。これら蔵書は、その後の神道研究で活用され、今日までの神道学の発展に多大に寄与し続けてきている。
「皇典講究所」を解散し「財団法人國學院大學」を設立。他大学に先んじて男女共学制を採用。
文学者
1886–1958
國學院大學卒業。東京帝国大学(現、東京大学)において『校本万葉集』の編纂に携わる。大正15年に國學院大學教授に就任し、同年には長慶天皇の在位に関する有力な史料を発見した功労により、御紋章附銀盃を賜わる。昭和25年に『万葉集校訂の研究』で日本学士院賞を受賞。その文献学的方法に基づく堅実な研究は、万葉集および上代文学研究の発展に多大な寄与をなした。
武田祐吉教授の授業風景(昭和32年)
財団法人を廃し「学校法人國學院大學」となる。政経学部第二部を開設。大学院日本文学専攻・神道学専攻修士課程を開設。
法制学者
1897–1992
日本法制史の大家で、研究領域は中国の法制史や政治史、社会経済史、芸能・風俗史などにおよび、遊女の歴史といった戦前はタブーとされた研究にも積極的に取り組んで、100冊を超える編著書を世に送り出している。法実務にも深くかかわり、東京裁判の特別弁護人をつとめ、後に記した『東京裁判をさばく』では、勝者が敗者を一方的に裁いた東京裁判の矛盾を指摘した。また江戸時代の訴訟についての『公事師・公事宿の研究』や、テレビドラマ「鬼平犯科帳」で有名な長谷川平蔵の伝記なども著した。
栃木高等学校を開設(昭和38年姉妹法人である「学校法人國學院大學栃木学園」として独立)
神奈川運動場を開設、体育関係授業を開始。
創立80周年を記念して法学部第一部を開設。「神道学資料室」を開設。
歴史学者
1906–1994
専門は日本近世・近代史。國學院大學卒業後、維新史料編纂官となり「大日本維新史料」編纂に従事した。戦時中はジャカルタ医科大学教授をつとめ、戦後は国立国会図書館に入る。昭和27年に國學院大學教授に就任し、国学をはじめ近世から近代に至る日本思想史を中心に幅広い研究を行ったほか、國學院大學の学校沿革史の編纂にも携わった。
11月4日、高松宮宣仁親王殿下台臨のもと創立100周年記念式典を挙行。北海道滝川市に「國學院女子短期大学」を新設。
創立100周年記念式典
横浜たまプラーザキャンパス
1号館竣功
2号館竣功
3月、学術メディアセンター(地上6階、地下2階)が竣功。4月、法学部が7時限制に移行。
学術メディアセンター竣功
「國學院女子短期大学」を、男女共学化により「國學院短期大学」に改称。
独文学者/随筆家
1933–2004
仏文学者・評論家の澁澤龍彦、劇作家の唐十郎らとならんで60~70年代のアングラ文化を代表する存在であり、幻想文学というジャンルを確立した。ドイツ文学の翻訳のほか、評論家・エッセイストとしても活躍。國學院大學では昭和53年に講師となり、のちに教授に就任。平成19年に芥川賞を受賞した諏訪哲史氏が師事していたことでも知られる。
文学部第一部に日本文学科・中国文学科・外国語文化学科、経済学部第一部に経済ネットワーキング学科、同第二部に産業消費情報学科を開設。
11月4日、寬仁親王殿下台臨のもと創立120周年記念式典を挙行。神道文化学部を開設(フレックス開講制)。21世紀COEプログラムに「神道と日本文化の国学的研究発信の拠点形成」が採択される。
國學院大學120周年記念展 東急百貨店本店(平成14年11月)
経済学部に経営学科を開設。経済学部および中国文学科・外国語文化学科・哲学科は7時限制に、日本文学科と史学科がフレックス開講制に移行。
5月、若木タワー(地上18階、地下1階)が竣功。
若木タワー竣功
4月、たまプラーザキャンパスに人間開発学部を開設。「教育開発推進機構」が発足。「國學院短期大学」を「國學院大學北海道短期大学部」に改称。9月、3号館が竣功。
現在の渋谷キャンパス
モニュメント除幕式
4月、たまプラーザキャンパスに観光まちづくり学部を開設。
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