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平成25年度卒業式学長式辞

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2014年5月7日更新

 本(もと)立ちて道生ず

学長 赤井益久

1、はじめに

 第122期卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。皆さんは定められた学修の課程を経て、ここに卒業を迎えることができました。新たなる門出にあたり、大学を代表して心よりお祝いを申しあげます。また、これまで支えていただきました、ご家族の皆様にも、お祝いと御礼を申しあげたいと存じます。
 「人生は直角に曲がれ」とは、わが恩師の戒めですが、人生には確かに多くの分岐点があり、大学卒業は人生のうえでも大きな分岐点あるいは曲がり角とも言えるものです。大学はいわば教育と研究を主な役割と考える「学び舎」であり、専門分野における知識や体系を学び、学問の作法や流儀を身につけてきました。多くの場合、学問は目の前にある、知識の集積や先人の理論の体系として目に映ったかもしれません。あるいは学問はすでにある、実体を伴ったものとして認識されたかもしれません。これまでの諸君の学問に対する姿勢としては、それはある程度予測され、やむを得ない側面を有しています。なぜならば、その知識の修得や学問体系の理解すらも容易ではないからです。その学修を終えられた今、諸君には、あらためて「学問とはなにか」また「学問が現実社会に何をなしうるか」に思いを致していただきたいのであります。その意味で、卒業はこれまでの学問と、これからの学問を問いかけるきっかけとなると考えるからです。

 

2、「本立チテ道生ズ」

 國學院大學の母体である皇典講究所設立の際に、初代総裁有栖川宮幟仁親王が宣言された告諭には、「凡ソ学問ノ道ハ 本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ 故ニ国体ヲ講明シテ 以テ立国ノ基礎ヲ鞏(かた)クシ 徳性ヲ涵養シテ以テ人生ノ本分ヲ尽クスハ 百世易(か)フベカラザル典則ナリ」と宣言されております。大学の建学の精神です。諸君が学んでこられたそれぞれの学問の根幹には、この思いが託されています。
 この告諭には、学問を修めるにはその根本を修めることが最も大事であると指摘されています。さらにその上で、人に人柄、土地に土地柄があるように、日本の国柄を究めること、また個人のもって生まれた個性や徳性を涵養して、その本分を尽くすことこそが永遠に変わることのない規範であると言うのです。
 いわば日本文化の究明と、人としての生き方の探求とを、國學院大學における教育と研究の大きな二つの柱としていることに注意しなければなりません。なぜ学問は、徳性の涵養や人格の陶冶と関係を持つのでしょうか。客観的な論証を必要とする科学的な研究、批判的な検証を必須とする学問と、あくまでもひと本意の、人格の陶冶や徳性の涵養とは、一見して無関係なようにも思われます。
 そもそも告諭に言う「凡ソ学問ノ道ハ 本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ」とは、中国の古典『論語』にある「本立チテ 道生ズ」(学而)に由来します。その言葉が出てくる文脈は、君子は物事の根本に努力する、根本が定まってのち、自らの進むべき道もはっきりする、との意味です。その根本こそがその人の人格である、と言っています。また同じ古典の中には、慎み深くあって、誠実を実践し、周囲の人々を広く愛し、人格者と親しみ、「行ひて余力あらば、則ちもって文を学ぶ」(学而)とも言っています。この場合の文は学問といって良いでしょう。ここでも人格に伴う日常の振る舞い、実践、態度、心がけを第一に説き、ついで学問の修養に言及しています。学問がけっして知識の集積や理論の体系を意味しておりません。まずは人としての振る舞いや付き合いができることが前提でありました。古代社会にあっては、まず人格の陶冶や徳性の涵養が学問の目指す目標でありました。

 

3、学問の本質

 学問が真理の探究や新たな技術の獲得などを主要な課題とする近代社会にあっても、学問が学問としての地位を得るには、目の前にある既存の知識や理論の体系を修得することだけでは、恐らくはその地位を維持し続けることが難しいでしょう。なぜならば、それは大事な部分ではありますが、必ずしも学問の本質ではないからです。
 科学技術の進歩や高度な医療の実現は、学術の進展の成果には相違ありません。同時に、そこには人類にとって何が幸いなのか、どのような生命の在り方が望ましいのか、人はいかに生きるべきなのかという、問いかけが絶えずなければなりません。人として認める真実や価値が人間の意識の外にあるか否かという古い命題は、そのことをわれわれに教えています。
 人間として認める価値、幸福や平和、それは人間が人間としての認識として保有しているものです。けっして、その外に客観的な真実の価値として存在するものではありません。その意味で、それを決定する根本的な価値観や認識は、われわれ人間としての個人の人格や価値観に大きく依拠するものであるということを改めて確認する必要があります。学問は、その人がどのような価値を持ち、なにを大事に思うかということと乖離しては存在し得ないからです。

 

4、神道精神と「常若(とこわか)」

 そうした問いかけがなされることこそが、学問の在り方の本質であり、「学は人なり」という言葉の持つ意味も、学問の修養が人格の陶冶と並んで標榜される意味も、ここにあるのではないでしょうか。本学の建学の精神として、「国体の講明」と「徳性の涵養」が、相互に補完し、互いに不可欠の要素としてあるのも、この道理を説明したものに外なりません。諸君のこれまでの学修は、どちらかといえば知識の習得や理論体系の理解に多くは費やされてきました。しかし、これから社会でのはたらきは、むしろ今まで学んできた事柄を基礎として、自ら考え、自分で判断することが求められます。その際には、専門で養った本質を見抜く力、幅広い教養で培った広い視野が頼りになることと思います。
 建学の精神で言う「本ヲ立ツ」の本は、大地に根ざす木の根を意味します。草木の根は、大地に深く根ざすことにより風雨に堪える強い幹になります。豊かな大地は、長い年月をかけて固め成すことにとって形成されてきました。土壌が深く豊かであるからこそ、そこに根ざす樹木も太く逞しく育ちます。
 また、國學院大學は教育と研究にあたり神道精神に基づくことを標榜しています。神道といえば、「祭り」あるいは鎮守の森が直ちに想起されます。昨年は、伊勢神宮の二十年に一度の式年遷宮の年でした。新たな神殿にご神体をお祭りし、旧(ふ)り越した宝物を新たにしつらえ、周年を経て、新しい息吹を吹き込み、神の不滅と永遠を言祝ぐ日本人の原点とも言える祭礼であります。神道の祭祀には、自然環境と密接に関係する農耕儀礼に由来するものが多く、自然への感謝、大自然への畏敬、人間存在の謙虚な自覚などが改めて示唆されます。変化することによって、かえって永遠を期すという「常若」(とこわか)の考えも、こうした祭礼の背後にあると考えられます。
 農地の土壌は、丹念に耕作され、肥料を蓄え、ある時は休息を与え、長い時間をかけ、文字通り培ってきたものです。まさにその上に花開き、実を結ぶには、豊かな土壌と自然の恵みが必要なのであります。変化することによって永遠を期す、という考えを教える式年遷宮ですが、同時にその時々に応じて対応する能力、変化はするが変質はしないという「本質」のとらえ方のヒントがあるようです。

 

5、社会への貢献―本質を見抜く力と信念―

 大学での学びは、規則や基準、さまざまな指標によって公平にして客観的に判断されます。しかし、これから諸君が生きていく社会は、必ずしも公平な原則や平等な機会がもたらされるとは限りません。むしろ予測不能な出来事や偶然の出逢いが成否を決定することが多いと思います。
 そうした折にその人の判断を支えるのが、物事の本質を見抜く力と、自らに顧みて揺らぐことのない信念であります。そうでなければ他者に振り回されて自己を見失うことになるからです。「本ヲ立ツ」とは、周囲に左右されぬ、こうした自己の確立を指すことであると考えます。学問が社会に何らかの貢献ができるとすれば、この土と樹木の関係に似て、新たな価値を生み出す土壌の深さ、また花開く際の栄養となる豊かな地味、おりおりの太陽の光や恵みの雨が必要となります。この「本」が、諸君にとっては大学における四年間の学修であったのです。
 諸君にとってのこれからの学問は、おそらくは日々を生き生きとして生き、生命の輝きに敏感に反応し、本質を見抜き、自らの信念に従って判断行動する、そうしたところに諸君のわが「本」があるように思われます。
 諸君が学んだことを固め成し、それを本に新たな時代により良く導き、益々活躍されることを祈念し、学長式辞と致します。

以上
 
(平成26年3月23日 グランドプリンスホテル新高輪「飛天」において挙行)

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