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住民が作った魅力、城崎温泉の「弱点」がシンボルに
~近隣の人もその地域に行きたくなる“まちづくり”とは(連載第2回)

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新学部設置準備室長 西村幸夫

2020年12月14日更新

 

 コロナ禍では、遠方ではなく近隣を巡るマイクロツーリズムが注目されている。とはいえ、観光客を受け入れる地域にとっては、近くに住む人、いわばその地域をある程度知っている人を呼び込むのは簡単ではない。新鮮な“まち”の魅力を打ち出さなければ、足を運ぶ動機になりにくいからだ。そこで大切なのが、まちの歴史や成り立ちを掘り起こし、地域の「個性」を磨き直すことと言える。

「たとえば温泉まちは全国に数々ありますが、それぞれまったく違う趣や特性、歴史を持っています。決して一括りにすることはできません。そういった背景をきちんと見直すことで、地元の人さえ知らなかったまちの魅力を磨き直せるのです。それは今後のまちづくりにもつながります」

 こう話すのは、都市工学の専門家である國學院大學新学部設置準備室長の西村幸夫教授。観光を起点としたまちづくりを考える同氏は、日本の温泉まちの違いをどう捉えているのか。詳しい話を聞いた。

國學院大學 新学部設置準備室長・教授の西村幸夫氏。1952年生まれ。博士(工学)。東京大学工学部都市工学科卒業、同大学院修了。東京大学教授、同副学長、マサチューセッツ工科大学客員研究員、コロンビア大学客員研究員、フランス社会科学高等研究院客員教授、国際記念物遺跡会議(ICOMOS)副会長などを歴任。専門は、都市保全計画、景観計画、歴史まちづくり、歴史的環境保全。

 

 

伊香保温泉の有名な石段は、封建制の面影でもある

――今回は“温泉まち”にスポットを当てて、歴史や成り立ちから各地の魅力を伺えればと思います。

西村幸夫氏(以下、敬称略) 本題に入る前に、温泉まちは、それ以外のまちとは発展していく理屈が違うことをご存じですか? 温泉は、今でこそ掘削技術が進んだものの、昔は自然湧出する場所に作るしかありませんでした。他のまちは「開発に適した広さがあるか?」「他のまちとのアクセスは良いか?」「安全か?」などが発展の大きな要素となりますが、温泉まちは「そこに温泉が湧き出ているか」が唯一に近い要素となります。だからどんなに狭い場所でも、アクセスが悪い場所でも温泉まちはできるのです。

 次に発展の大きな要素となるのは2つ。湧き出た温泉が「誰のものか」ということ、そして温泉の湧き出る量、つまり「湧出量」です。

 まず「誰のものか」という点について説明しましょう。基本的に温泉は、近世まで地域共同体のもの、みんなのものとして存在しました。たとえば、自分の持つ土地から温泉が出ても、土地の所有者とは別に、みんなが入れる。その象徴が「外湯」です。公衆浴場のような存在で、宿とセットではなく、日帰りで誰でも入浴できるもの。明治の半ば頃までは、「湯治」といって温泉まちに長期滞在し、宿に泊まりながら日々外湯を巡る形が多かったと言えます。

 その外湯が発展し、まちのシンボルになっているケースもあります。典型的なのは城崎温泉。現在7個の外湯があり、特に夜は、旅館に泊まっている人たちが浴衣に下駄履きで外湯を巡ります。まさに昔の雰囲気が残っています。1日外湯を巡れるチケットなども宿泊先から提供され、ひとつの名物となっているのです。

きのさき温泉観光協会公式サイトより「7つの外湯」について

――昔から続いた外湯の文化が、城崎温泉のシンボルになっていると。

西村 はい。一方、外湯ではなく「内湯」によって発展した温泉まちもあります。内湯は、今でいう宿が保有する温泉。保有者が明確に決まっており、入れる人も限定されたものです。昔の内湯は、たとえば地域の豪族など権力者が温泉を自らの一族郎党に分け与える封建的なケースがありました。

 伊香保温泉はその代表です。長く続く石段の風景が有名ですが、実はこれこそが内湯文化の名残です。石段の内部を温泉が流れ、湯を得る権利を認められた豪族の家臣団が上から順に分けてもらう構造になっていました。石段と両側に並ぶ宿、そしてお湯の分配について、当初から計画的に作られたまちと言えるでしょう。

 つまり、現在の伊香保温泉を象徴する、情緒あるあの石畳の景観は、当時の緻密に計算された分配システムがなければ作られることは無かったのかもしれません。大昔の封建システムが現代の人を魅了する景観を生み出したと考えると、実に感慨深いですね。

温泉は「誰のものか」という認識が変わり始める

――当時の封建制が、まちの風景にも影響を与えていたのですね。

西村 そうですね。ただし、今話したまちの成り立ちは日本が近代国家となる以前の話です。対して明治以降になると、温泉は「誰のものか」という認識が大きく変化します。以前のような共有財産という考えは薄れていくのです。掘削技術も進み、自然に湧き出ている源泉がなくても、自分が所有する土地を掘削して温泉ビジネスを行うケースが増えてくる。それにより、近代的な所有権も確立して行きます。

 ここで問題になるのが、地域の「温泉湧出量」です。たとえば別府温泉のように湧出量が多く、いくら温泉を掘っても湯が不足しない場所は、掘削が増えてもすぐには困りません。

 一方、頭を悩ませたのが湧出量の少ない地域です。元湯に限りがあるため、地域内で温泉掘削が続けば、元湯が枯れてしまいます。実はその問題に直面したのが、先ほど話した城崎温泉だったのです。

――「今も外湯が残り続けている」という話だったので意外です。

西村 実は「湧出量が少ない」ことこそ、城崎に外湯が残った最大の理由なのです。城崎は湧出量が少ないため、明治頃まで土地所有者が内湯を作ることを不文律で禁止にしてきました。一部例外は認めていましたが。逆に言えば、法律では明確に禁止していなかった。すると、徐々に内湯を作る者が出てきます。1910年代頃から問題は表面化してきました。

 さらに1927年には、内湯を認めるかどうかで裁判が行われます。内湯を認めれば、今まで外湯を前提に営業してきた旅館は厳しくなる。一方、欧米の「個人の権利」の意識が浸透する中で、内湯を推進する人の意見も多くなります。内湯派と外湯派、城崎を二分する裁判になりました。

 この裁判が決着したのは、20年以上経った1950年のこと。行政訴訟・民事訴訟の両方で争われた結果、どちらも内湯派の主張が認められました。

川沿いの景観に見える、「地域共同体」としての城崎

――となると、なぜ外湯が残ったのでしょうか。

西村 内湯派の主張は認められたものの、彼らは最終的に外湯派の意見を受け止めたのです。そして、湧出量の少ない城崎がこれからも温泉まちを保つために、内湯派はある提案をします。

 それは、内湯の設置自体は認めてもらうものの、その規模を条例によって制限することでした。規模の大きい温泉は外湯のみとしたのです。加えて、すべての源泉は「湯島財産区」が管理することとしました。城崎全体の温泉を一括管理することで、掘削により元湯が枯れることを防いだ。城崎温泉が地域共同体として運営してきた歴史と言えるでしょう。

 最近は「源泉かけ流し」の温泉を好む方も多いですが、それは他方で資源の無駄使いという側面も持っています。逆に地域一帯で湯の温度や質を管理し、一定にして配分している城崎のあり方も素晴らしいのではないでしょうか。

――歴史を掘り起こすと、城崎温泉の「共同体」としての魅力が見えてくると。

西村 このような背景を知って城崎を訪れると、まちの見え方がもっと鮮明になるはずです。ちなみに城崎温泉といえば、まちの中心を流れる大谿川(おおたにがわ)と、その両側に並ぶ木造三階建の統一された景観が有名です。

 この景観は、はるか昔から城崎を形作ってきた象徴です。ただしこちらも、失われる危機が一度ありました。1925年、北但馬地震でまちが全焼したためです。しかしその後、住民が意思統一し、震災前と変わらない景観を復元しました。これも、誰かが大型の旅館を建てようとすれば復元できなかったでしょう。さらに1974年には、景観を守るための環境保全条例も作りました。景観を守る条例を定めた時期としては、全国で見ても、京都や金沢に並び非常に早い時期です。 

 つまり、城崎の名物である景観も、この地が持つ「共同体」としての意識が宿っているのです。そしてその強い共同体を生んだのは、湧出量が少ないために「地域で協力しなければならない」という危機感だった。城崎にとっては“弱点”でもあった湧出量の少なさが、地域の魅力につながったのです。

まちを見つめ直し、人気企画「オンパク」で復活した別府

――城崎の魅力がより具体的にわかってきました。

西村 同じ視点で、別府温泉も歴史をもとにした魅力があります。先ほど話したように、別府は湧出量日本一を誇ります。別府八湯という温泉郷を中心に、無数の温泉が点在。地元の人がお金を出し合って作った共同湯もたくさんあるのです。

 ここも明治以降、温泉掘削が盛んに行われました。また、明治初めには近くに別府港が完成し、フェリーが往来するように。大型ホテルが建設され、バブル期には観光客もピークを迎えます。

 しかし、その後は観光客が減少。一転して苦しい時代を迎えますが、このピンチを救ったのも別府の持つ個性、湧出量の多さでした。

――どういうことでしょうか。

西村 これほどの温泉が点在するのは、別府にしかない魅力です。加えて、共同湯の中には、数十軒単位の限られた地元住民だけが使っていて、ごく稀に一般客に解放するレアな温泉もある。それらを一つずつコンプリートしていくという、ある意味でマニアックな楽しみ方が生まれてきます。さらに、まちの中には古いものもたくさん残っている。民家が立ち並ぶ中に、地獄釜や囲炉裏など、古くからの道具や風景もあるのです。

 そこで、20年ほど前からこういった別府の魅力を見直す動きが始まりました。代表的なのが、2001年にスタートした別府八湯温泉泊覧会(オンパク)です。多数の温泉が点在している特徴を利用し、地元の人が温泉をはじめさまざまな場所を案内。レアな温泉やスポットなども紹介しました。すると、観光客はもちろん、地元の人にも人気となります。知る人ぞ知る温泉と出合える点が好評を博します。

――別府の湧出量と、それによって生まれたまちのあり方が、こういったイベントで脚光を浴びたと。

西村 オンパクは別府の人気回復を後押ししたほか、さまざまな温泉まちでも行われるようになりました。各地のオンパクを連繫する全国組織も立ち上がっています。

 バブル崩壊後、大規模な温泉まちはみな厳しい時期を迎えました。会社の慰安旅行や団体客が減ったためです。しかし、何年も経った今、まったく違うアプローチでふたたび輝いています。その復活の突破口となったのは、まちの成り立ちや歴史と密接に関連した魅力でした。まちの歩みを見直し、改めてその個性を明確にすると、今まで気づかなかった魅力が出てくると言えるでしょう。たとえば昭和レトロは、今の若い人にとっては新しい魅力でもあるのです。

 まちの歴史を知ることで、新たな個性を発見する例はまだまだあります。たとえば各地の城下町も、背景を知るとそれぞれの違いが見えてきます。次回また説明しましょう。

(つづく)

西村 幸夫

論文

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