令和7(2025)年は、日本の民俗学を創始した柳田國男(明治8(1875)年7月31日)の生誕150周年という節目にあたる。この機会に、あらためて柳田と本学の学統形成の関係を振り返ってみたい。
昭和15年(1940)4月、本学大学部国文学科に国文と国史両学科の必修科目として「民俗学」が開設された。近代以降、西欧諸学を導入をしていた東京帝国大学など日本の大学には開講されていなかった科目で、その設置は、画期的なことであった。
この立役者が折口信夫であったことは言うまでもない。折口はそれ以前から、柳田の提唱する「民間伝承学」が国文学研究に有効であると考え、新たな道として柳田の学問を学び、自分の師と仰ぐだけではなく、本学と柳田とのパイプ役を担った。大正9(1920)年9・10月には、2回に亘って本学郷土研究会に柳田を招き、「フォークロアの範囲」の講演をしてもらっている。また、折口らが設立した本学國文學會でも、柳田は大正13年(1924)の「俳諧とフォークロア」以来、何度も講演をしている。昭和8年(1933)には、本学方言研究会でも「何のために方言を集めるのか―民俗学と言語学の関係」の講演を行い、昭和13年(1938)には同研究会から『禁忌習俗語彙』を出版している。
柳田に導かれ、折口が本学に根付かせた「生活の古典」である民俗の学を起点に、本学では西角井正慶、高崎正秀、大場磐雄、藤野岩友、今泉忠義をはじめ、牧田茂、井之口章次、郷田(坪井)洋文など、多分野にわたる研究者が出ている。
加えて柳田は、文化勲章を受章する昭和26年(1951)の4月に、本学教授に就任している。折口が主任教授となって、大学院に神道学専攻を設置するにあたってのことで、「神道理論」と「神道教理史」を担当した。前年の就任受諾時には、石川岩吉学長に給与受給を断り、「自分にこんなに出す位なら何故若い者を仕立てる方に使わないのか」と一喝したエピソードが伝わっている。柳田はいくつもの大学で教鞭をとったが、教授への就任は本学のみであった。
昭和28年(1953)9月3日、もっとも柳田の学問を理解していた折口が、民俗学の行く末を案じつつこの世を去ったが、柳田の本学教授退任は昭和35(1960)年5月、85歳まで続いた。この間、昭和30(1955)年7月開設の本学日本文化研究所については、昭和28年の設立準備から参画している。研究指導委員(研究審議委員)として、設立趣意書、規程制定に加わっており、設立準備会による研究所基本方針には、固有信仰の精深な研究などがうたわれている。この研究所に大きな期待を寄せていた柳田は、幾度も講演を行い、昭和33(1958)年11月の「みてぐら考」には400人もが集まった。柳田の最後の本学訪問は、逝去(8月8日)の前月、昭和37年(1961)7月6<日に開催された日本文化研究所研究審議委員全員会であった。
その最期の時まで、本学の「学問の道」を思い、その発展への労を厭わなかった柳田國男であった。本学がもつ学問的特色の一つである民間伝承学、民俗学は、こうして柳田と折口によって築かれ、教学においては、平成4(1992)年に文学部文学科(平成8(1996)年4月から日本文学科)に設けられた伝承文学専攻に引き継がれている。これは国語科の教員免許取得に配慮した名称だが、「伝承」という用語の中に、民俗学があらわされている。

柳田國男(左)と折口信夫(昭和25年10月14日 東京駅にて)