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地域の歴史を見直すことが、観光業飛躍のカギとなる
~マイクロツーリズムを成功させる、まちづくりのあり方(連載第1回)

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新学部設置準備室長 西村幸夫

2020年11月18日更新

 

 コロナ禍で大きな打撃を受けているのが観光産業だ。近年盛り上がったインバウンドの風向きは変わり、悲鳴を上げている“まち”も多い。

 そんな中、アフターコロナを考える上で、まちのあり方はどうあるべきなのだろうか。そこで話を聞いたのが、日本の都市工学の第一人者であり、現在は國學院大學新学部設置準備室長を務める西村幸夫教授。日本イコモス国内委員会委員長なども歴任した同氏は、アフターコロナにおける「観光を起点としたまちづくり」を考えているという。

 とはいえ、彼の言う「観光」は多くの人がイメージするものとは異なるかもしれない。そもそも、観光のあり方を改めて問い直すことが、今回のような有事や災害からも立ち直れるまちづくりにつながるという。具体的な例を出してもらいながら、西村氏の考えるこれからのまちづくりを聞いた。

 

國學院大學 新学部設置準備室長・教授の西村幸夫氏。1952年生まれ。博士(工学)。東京大学工学部都市工学科卒業、同大学院修了。東京大学教授、同副学長、マサチューセッツ工科大学客員研究員、コロンビア大学客員研究員、フランス社会科学高等研究院客員教授、国際記念物遺跡会議(ICOMOS)副会長などを歴任。専門は、都市保全計画、景観計画、歴史まちづくり、歴史的環境保全。

 

新たなまちの魅力をゼロからつくるのではなく、あるものを磨き直す

――コロナ禍で観光産業は厳しい状況になっています。特にインバウンドの激減は顕著ですよね。

西村幸夫氏(以下、敬称略) そうですね。海外や遠方の観光客が減る中で、マイクロツーリズムが重要になっています。これは近隣を巡る短距離観光のことですが、マイクロツーリズムで人を集めるのは、地域にとって簡単ではない。近隣は「いつでもいける」「十分知っている」と思って動かない人も多いですし、遠方への旅行に比べると、どうしてもお金を消費しにくいためです。

 しかし、自分では「熟知している」と思っている近隣のまちでも、実は知らないことがたくさんあります。このまちはどんな風に生まれたのか。なぜこの場所に大きな通りがあるのか。なぜここに駅ができたのか。あまりに当たり前すぎて考えないかもしれませんが、その歴史をきちんと掘り起こすと、まちは物語にあふれていることに改めて気づくはずです。それが、マイクロツーリズムでは大きな可能性になります。

――まちの成り立ちや歴史を見直すということでしょうか。

西村 はい。私は都市工学、まちづくりを専門にしてきました。観光というと、新たな施設やお店、あるいは何か新たなまちの魅力を用意してPRすることも多いですが、このやり方だと、そのまち固有の魅力が出づらい。他の地域に似た既成の観光商品になってしまう。むしろ、元からあるまちの歴史や魅力を磨き直す方がはるかに効果的です。大きな投資は必要なく、しかもその地域にしかない個性が出る。まちの歴史を紐解けば、ひとつとして同じ地域はないのです。

 さらにその手法は、観光客だけでなく住民にも効果があります。今まで知っているつもりだった場所、通り、馴染みの地名がまったく違う意味を持ってくる。すると、住民がそのまちを知り、愛着や誇りを持つことにつながります。

 まちは観光客のためにあるわけではありません。住民からすれば、外から人が来ることにアレルギーを持つケースもあります。とはいえ、少子高齢化の中では、何もしなければ地域は過疎化・シュリンクしていく。今までの地域を持続させるには、そのまちに住んでいなくても、外から、遠くから応援してくれる人々が必要です。つまり「関係人口」を増やす必要があるのです。

回復力にすぐれた「レジリエント」なまちが求められている

――関係人口とは、継続的にその地域を訪れたり関わったりする人たちのことですよね。

西村 はい。まちの歴史を見直すことは、地域の魅力を伝え、関係人口を増やす方策になります。とともに、そこに暮らす人が地元に誇りを持つきっかけにもなる。観光客と住民、両方にメリットを与えるのです。その意味で、私は観光を起点としたまちづくり、「観光まちづくり」を近年研究しています。

 特に重要なのは、観光を起点にまちの“レジリエンス”を高めることです。レジリエンスとは「回復力」などを意味しますが、今回のコロナ禍や災害といった非常時にも強い、回復できるまちの仕組みを平時から作らなければなりません。

――どのようにしてレジリエンスなまちを作るのでしょうか。

西村 大切なのは、地域の拠り所になるものを絶やさないことです。つまり、まちの中で“変えない部分”と“変えていい部分”を分けておく。変えない部分として、地域のお祭りなどは分かりやすいでしょう。まちの連続性やアイデンティティになりますし、住民の拠り所になります。極端な投資も必要ありません。

 まちには昔から大切にされてきた中心地(へそ)があります。へそを知る、まちの歴史を知ることで、この地域がどんな構造なのか、どちらに向いているのか。なぜその通りに老舗の名店があるのか、連続性が見えてきます。それはまちの奥行きを生み、コストをかけず魅力を積み重ねていくことにもなりますし、なにより、地元の人にとっても誇りにつながり、元気のもととなり得るのです。

横浜と神戸の共通点と異なる点。横浜の“へそ”はどこか

――歴史を知り、大切にされてきたへそを考えていくと。そういったことで、まちを再認識できるのでしょうか。

西村 そうですね。一例として、横浜と神戸の対比が面白いでしょう。並び称されることの多い代表的な開港都市ですが、共通する点と異なる点があります。それらは、まちの成り立ちを紐解くと鮮明にわかってきます。

 まず共通点は、大都市からの距離感です。横浜は江戸(東京)から、神戸は大阪・京都からある程度離れた場所に立地しています。なぜなら、いずれも外国人居留地であり、市民が外国人の影響を受けないよう、大都市から離したかった。一方で、外国人はなるべく政治経済の中心地に近い場所に住みたかった。そのバランスにより、どちらも大都市と近すぎず遠すぎずの絶妙な距離感になっています。

 また、両方とも当時すでにあった港からやや離れた場所に立地させられています。横浜の場合、今の東神奈川あたりに宿場町があり、ここは港町も兼ねていました。一方、神戸は兵庫津という日本古来の港町が少し離れた場所にあります。この点も同じ位置関係と言えます。

――2つの開港都市について「立地」の共通点が見えてきました。

西村 都市において見過ごされがちなのが、「なぜそこにできたか」という視点です。これを問い直すだけでもさまざまな発見があるのです。

 開港後、横浜・神戸は外国人が最先端のものを持ち込む場所となり、急速な勢いで都市が発達。当時のブームタウンとなりました。たとえば福沢諭吉は自身のオランダ語の実力を試そうとわざわざ横浜までやって来たとい逸話が残っています。その後彼は、英語の習得に励んだそうです。恐らくこれからの時代はオランダ語ではなく英語が共通言語になるのだと痛感したのでしょう。

――そのような成り立ちは、今の横浜・神戸が持つまちの雰囲気にも関係していますよね。

西村 そうですね。ただ、2つの開港都市には違いもあります。港まちは「税関(または運上所)」が非常に重要で、大抵は港の一番眺めが良い場所に作られました。横浜の場合は「象の鼻」と言われる地点です。今の横浜税関はそこから少し場所がずれましたが、当初は横浜を縦に貫く日本大通りの突き当たり付近に位置していました。というより、その横浜税関を目指して、日本大通りがつくられたのです。

 日本大通りは税関から内陸へ向かい、横浜公園、その先の横浜スタジアムへとつながります。横浜公園の場所には、昔、遊郭がありました。この日本大通りこそ、横浜の顔であり、長く機能してきた“芯”です。その証拠に、今も通り沿いには県庁舎や郵便局、裁判所が並びます。日本大通りは開港から20年ほど経った頃につくられましたが、横浜の政治の軸となるブールバール(大通り)として存在し続けています。

 

横浜の都市模式図
※出典:「県都物語 — 47都心空間の近代をあるく」西村幸夫著

 

 日本大通りができる前、横浜で唯一、海岸と平行に一本貫く幹線となっていたのが本町通りです。こちらは商いの通りとして古くから賑わっていました。つまり、本町通りと日本大通り、この2つこそ横浜の骨格であり、直交する地点がへそと言えるでしょう。

神戸のまちが横に長い理由も、歴史からはっきり見えてくる

――横浜の中心地点なのだと。対する神戸はどうでしょうか。

西村 神戸も港の先に運上所がつくられ、そこにつながる通りもできましたが、都市構造の中心にはなりませんでした。これは横浜と異なる点です。

 この違いをもたらした理由はいくつかあります。まず、神戸は横浜よりも外国人居留地が小さく、外国人を一箇所に集めて居住させることができなかった。そこで、外国人は分散して済むことを許可されます。異人館で有名な山の手や、中華街がある南京町です。

 

神戸の都市模式図
※出典:「県都物語 — 47都心空間の近代をあるく」西村幸夫著

 

 それにより、神戸では面白い現象が起きました。外国人が開発を要望し、日本人と一緒に議論して誕生した日本初の西洋式公園である「東遊園地」です。今でも残るこの公園は、外国人と日本人が混ざり合いながら住んでいた神戸ならではのことなのかもしれません。

 あの時代に、日本人と外国人が一緒に議論しながら生活した地域であることから、神戸は「日本の地方自治の原点」とも言われるのです。

――そういった面があるのですね。

アーケードひとつとっても見え方が異なる

西村 もうひとつ神戸の成り立ちで重要なのは、もともと港として存在していた近くの兵庫津が栄えていたことです。かつて平清盛が作った日宋貿易の拠点であり、古代以来の港町として発展していた。そのため、近隣で神戸の開港・繁栄が始まると、兵庫津から神戸へ、広い範囲でまちが分散したのです。今の兵庫駅から三ノ宮駅の一帯ですね。横浜のように一箇所に集中してまちが発展するのではなく、兵庫津から神戸へ徐々にまちが移っていったイメージです。そのため、神戸の場合ははっきりとしたへそが見つかりにくい。

――なるほど。

西村 だからこそ、神戸はあれだけ横に長いまちとなりました。神戸元町のアーケードも、非常に長いことで有名です。ちなみにこのアーケードは、よく見ると少しずつ曲がっています。それはもともと、西国街道という古い街道筋を使っているため。新しく作った道ではないので、自然な道のカーブが生きています。一方、大阪の心斎橋筋商店街も長いアーケードですが、あれは直線ですよね。それは江戸時代に作った城下町の通りを使っているため。整備された直線になっています。

――なるほど。横浜と神戸の違いはもちろん、アーケードひとつとっても、見え方が異なってきますね。

西村 まちの成り立ちを知ると、その地を訪れる観光客はもちろん、地域住民の方も地元の見え方が大きく変わるはずです。それにより、忘れ去れていた魅力を新鮮な形で伝えられるのではないでしょうか。

 たとえば「温泉まち」も日本全国に多数ありますが、ひとつとして同じ温泉まちはありません。ひとつひとつの場所でまったく違う特徴や魅力、背景があります。それらは歴史や成り立ちを知ることで浮かび上がるのです。ということで、次回は日本の温泉まちについて紹介しましょう。

(つづく)

西村 幸夫

論文

集落・町並み保全地区における地域主体の調整システムの構築と調整課題の変遷に関する研究 -妻籠宿における住民組織と保存審議会に着目して(1968-2003)(2018/10/)

皮革産業構造の変遷から見た台東区北部地域の地域産業空間構造―地域産業空間構造から見た都市部職住混在空間の実態と継承に関する研究・その1(2018/08/)

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