准教授

長谷川 清貴

ハセガワ キヨタカ

専門分野
中国思想
本学就任
2008年04月01日
担当教科
中国古典読法1、中国原典演習2、中国文学展開演習2、中国原典研究2、中国文学研究2(2)、人文総合基礎3、中国の社会と思想、中国古典読法3、中国文学基礎講読1、漢文学概説、古典教育研究2、心性と思想(漢文を読み、味わう)、思想と文化091、中国人文学概説、中国文化入門、論語演習、中国文学講読1、卒業論文2(3年次)、卒業論文、卒業論文2(4年次)、生活と文化(『論語』を味わう)、言語と文化085

著書・論文紹介

後漢末の鄭玄は、今古文の学を兼ね、諸経を綜合した一大大系を構築した。彼は当時の学説へ様々に反駁を行っているが、多くが散佚し、輯佚資料に拠るしかない。鄭玄の反駁には、諸経の矛盾を指摘する学説に対し、別の解釈を示してそれが矛盾でないことを証明しようとするものが多い。諸経とは易・書・詩・春秋(経)・周禮・儀禮・禮記等であり、これらに矛盾を認めず、一個の大系とするのが鄭玄の学の著しい特徴である。さて、そのうち『春秋』には三伝という重要な補助資料があり、三伝の解釈にはしばしば矛盾と思われるものが見られるが、鄭玄がこれらを矛盾と認めたのかどうかで、彼が三伝をどう位置づけたかがわかるのではないか。三伝のかたちは現行のものと異なっていたとする説があるため、考察は慎重に行わねばならないが、本発表では鄭玄の駁論の特徴を述べた上で、手始めに周禮注に見える「春秋傳」の引用を見て、左伝をはじめとする三伝に対する立ち位置を検証した。

後漢末の大儒鄭玄は、再三の招聘を受けたものの一度も官途に就かず、「先聖の元意」の研究と祖述に専心した。従来の研究では、鄭玄のかかる態度は当然ながら彼の注釈の内容にも影響を与え、特に、本文に孔子個人の政治への姿勢が多く描かれる『論語』の注において、概して政治的消極性が窺えると解されてきた。しかし、『論語』注では、鄭玄が最重視した礼が「法度」として示され、その研究自体が「為政」として、社会に働きかけることが示されており、また、孔子は理想とした「周公の道」を晩年には得たとしている。この見解と、彼が一子益恩に宛てて記した「戒書」からは後悔はうかがえず、自身の生き方に対しては、むしろ満足していたことがうかがえる。鄭玄は当時の社会に絶望したのでも、己が究明した「道」が後世に実現されることのみを願ったのでもない。その立場が、学問と実践とによって、最終的に「返経合義」に到達することをめざし、かつ孔子、ひいては自身を、晩年「周公の道」を得た、すなわち、「返経合義」を実現したと、高らかに宣言することへとつながったのである。

『論語』為政篇の「或謂孔子」章で、なぜ出仕しないのかという問いに対する孔子の返答の結びを、後漢末の鄭玄の『論語注』は「奚其爲爲政」に作る。従来の解釈では、この部分は孝や友を実践していれば、出仕して政を為すまでもないとされてきたが、鄭玄の注の内容からすれば、この部分を鄭玄は「私は今何をしているのか、政をしているのだ」と解していたのではないか。先行の諸研究では、『論語注』では孔子を実践的な人間とする見解の一方で、鄭玄自身が生涯出仕しなかったことから、『論語注』にも社会に対する消極的な姿勢が反映されているとされてきたが、本発表では、『論語注』では礼が、世の「法度」そのものであるとされ、その考究自体が為政そのものであるとされている可能性を指摘した。

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教授からのメッセージ

大学は最高学府である。その敷居が年々低くなろうと、この事実は揺るがない。諸君が本學の門をくぐった理由は各人各様であろう。研鑽の末に宿願叶った者、必ずしも本意でない者、まだ自分が何をしたいのか見えていない者……。どんな者にも物理的時間は平等に流れる。四年の歳月は諸君を確実に変え、成長させる。しかし、その成長の幅をどれだけ大きくするかは、諸君次第である。物理的には同じでも、その人がいかなる決意で、日々をどのように過ごすか。時間の密度は平等ではない。
大学は学びの場である。本来、学ぶことは楽しいはずだ。学ぶことで己を高められるからだ。しかし、大学での学びには苦しさが伴うだろう。己を大きく高めるために、大きな負荷が要求されるからだ。一方で、大学は自由である。諸君が成人になんなんとし、諸君が自身で大学に入ることを希望したはずだからだ。講義で要求されたことの全てを果たさず、適当に毎日毎週を切り抜けることも、その気になればいくらでもできるだろう。
孔子にこんな言葉がある。「憤せずんば啓せず、悱(ひ)せずんば発せず。」解釈にはいくつかあるが、朱子は「その人が物事を通じようとしてうまく行かない状態、表現する言葉に困っている状態になっていなければ、教えない。」と解する。また孔子はこうも言う。「これを如何(いかん)せん、これを如何せんといはざる者は、吾これを如何ともするなきのみ。」どうしよう、どうしようと言わない者は、私にはどうしようもない。――孔子の教育は厳しいものであるが、この内容は時代を問わず普遍であろう。強い問題意識をもつ者は苦悩も強くなるが、その中で教わり学び得たことはかけがえのない価値をもつ。諸君、大いに苦学してほしい。自分が真に学びたいことは、行き悩んだ末にはじめて見える。諸君が楽しみにあふれた知への扉をいかに見つけ、開くか。我々教員はそのための助力を惜しまない。

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