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平成26年度入学式学長告辞

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2014年5月7日更新

 故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る

                                     学長 赤井益久

1、はじめに

 各学部、専攻科、別科にご入学の皆さん、入学誠におめでとうございます。大学を代表し、心より歓迎いたします。また、ご家族の皆様にもお祝いを申し上げます。
 皆さんは、本日より國學院大學の学生となります。「学生となる」のであって、「学生である」のではありません。つまり、國學院大學の学生となるのは、偶然ではなく、そこには積極的な自らの選択と意志が働いています。その選択と意志を大事にしていただきたいと思います。それを確認することが、これからの学生生活を有意義に送る上で必要であると考えます。なぜならば、この四年間は、皆さんの人生のうえで気力体力ともに旺盛であり、最も充実している黄金の時間であるからであります。その大切な時をいかに使うかで、今を有意義に過ごすばかりでなく、その後の人生も大きく変わりうるからです。

2、國學院大學の建学の精神

 皆さんは、始めに四年間を過ごす「学び舎」を知る必要があります。國學院大學は、明治15年(西暦1882年)に設立された皇典講究所を母体としています。今年で132年の歴史を有します。皇典とは皇国の典籍、いわばわが国に伝わった古典を意味します。その古典を研究教授する機関として出発いたしました。
 当時、時代は明治維新以降西欧の列強に追いつくべく、西洋の文明を吸収しようと懸命になり、欧化の波に洗われていました。急激な欧化は、一方で自国の文化を軽視する風潮を生みました。これに危機感を覚えた朝野の有識者が集まり、設立されたのが皇典講究所であります。当時のこの風潮は、今日言う所の「グローバリゼーション」、すなわち国境を越えた価値基準や地球規模の標準化がわが国に押し寄せたといって良いでしょう。これに対して、皇典講究所が出した答が、西欧の文明を学びつつ、自国の文化を蔑ろにせず、自らの拠って立つ基盤をこそ尊重すべきであるという主張です。
 皇典講究所設立の際に、初代総裁有栖川宮幟仁親王が宣言された「告諭」には、「凡(およ)ソ学問ノ道ハ本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ 故ニ国体ヲ講明シテ 以テ立国ノ基礎ヲ鞏(かた)クシ 徳性ヲ涵養シテ 以テ人生ノ本分ヲ尽クスハ 百世易(か)フベカラザル典則ナリ」と宣言されています。現在大学は、この告諭を建学の精神と位置づけています。
 これを平易に換言すれば、國學院大學の使命は、日本文化の究明、人に人柄、土地に土地柄があるように、日本という国柄を研究しそれを教授すること、また人間が持って生まれた個性や特性を輝かせて、それぞれの本分を尽くすことであると言えます。皆さんが学ぶ学問の根幹には、こうした精神が横たわり、それぞれにこの精神が込められています。
 学問を通して徳性を涵養し、人格を陶冶するとは、どのようなことを言うのでしょうか。われわれは学問といえば、理論の体系や知識の集積のような印象を受けるかもしれませんが、それは学問の一部であり、すべてではありません。より良き人間社会の構築、あるべき人の生き方、人間存在の規定など、学問の希求すべき課題は、多くは人がどのように生きるか、どのようにあるべきかなどという価値観や倫理観と密接に関わり、その集合体としての「知」に依拠します。したがって、文化の究明と人格の陶冶が並び賞揚されているのであります。

3、「言霊(ことだま)の幸はふ国」

 次に、これからの四年間の学修の基礎に日本語の学習を置いていただきたい。われわれの母語、すなわち第一言語である日本語を大切にし、この四年間を通して改めて学び直し、正しい日本語を身につけていただきたい。
 ひと口に日本文化の究明と言って、学問の専門分野としては、さまざまです。しかし、新入生の皆さんに申し上げておきたいことは、日本語こそ、いわば日本文化の精華であり、千年二千年という時を経て、今に伝わる民族の遺産であり、遺伝子を伝えています。いずれの専門分野を学ぶにせよ、正しい日本語の修得を、まず学修の基盤に据えるということを肝に銘じ、心がけてください。
 大自然への畏敬を、よろずの物に神がおわすと考えたわれわれの祖先は、ことばにも霊力があると考えました。『万葉集』には「敷島の日本(やまと)の国は、言霊のさきはふ国ぞ、まさきくありこそ」(柿本人麻呂)という歌があります。言葉の持つ魂が幸いをもたらす国という意味です。この歌の背景には、言葉には霊力があり、その霊力が幸福をもたらすという考えと共に、正しいことばを使わなければ、かえって身に禍をもたらすというものでした。ことばには生命がある、人を動かす力があると考えました。しかし、言葉はいたずらに発するものではありません。たえず物事に敏感の反応する、生き生きした心の動きに伴って起こるものです。
 『古今集』には、そのことを「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。花に鳴く鴬、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いずれか歌を詠まざりける」「力を入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれと思わせ、男女の仲を和らげ、猛き武士(もののふ)の心をも、慰むるは歌なり」(仮名序)と言葉の力を説いています。
 人が生きていること、言葉を発し、表現することとは、いったい何なのか。思わず口を突いて出た言葉、瞬間的に脳裏によぎった感じ、重く淀んでいた思いが一瞬に開けた輝き、それを言葉にする喜びと悩み、こうした経験は鈍感な日常にはもたらされないからであります。人が生きるということは、そうした日常に敏感であること、感情の動きに鋭く反応すること、そして自らが言葉にしてみること。そうした努力の積み重ねの上にあることは確かなようです。

4、古典を学ぶ意義

 國學院大學の母体である皇典講究所は、古典の研究教授機関であると述べました。現在でも教育研究の面で古典を大事にしています。学統といって良いでしょう。古典と聞けば、『古事記』『万葉集』『源氏物語』を想起する人が多いと思いますが、ここで言う古典とは、むしろこれまでの研究成果の総体としての謂であって、すでに定着した古典としての評価を言うだけではありません。未来の研究視点や視座は、過去を学ぶことによって得られるものであり、学術の成果は過去から未来に連続するものであります。
 作家の竹西寛子氏は、古典を読むことについて、「今をよりよく知ろうとして、今を今として成り立たせている過去を知ろうとするのは、少なくとも驕慢でない人間の自然であり、それは、今後をいかに選択するかに直結しているという点で生産的な行為であるはずである」(『王朝文学とつき合う』)と述べています。
 中国の古典『論語』には、「故きを温ねて新しきを知る」[温故知新](為政)という言葉があります。本来は、古い事柄に習熟し、新しいこともわきまえているという、教師としての資質を説明したものと理解されますが、この諺はわが国では、明治の文豪坪内逍遙が指摘するように(「春廼家漫筆」)、表面上は、専ら過去を思うように見えますが、じつは過去に学び未来の糧とする意味で定着しているようです。古典を重視する意味は、すでに評価の定着した古典を伝承することが大事なのではなく、批判的に検証し、それを学び、そこから未来に新たな展開をうながすといったエネルギーが潜んでいることを理解すべきであり、学問には、そういった力強さがあります。時代や時間を超えて、古典を学ぶ意義がここにあります。

5、グローバルな世界に生きる

 最後に、学問の道は世界に開かれ、国境はないことを知らなければなりません。したがって、大学の存在は本来的にグローバルなものであり、学術の進展は地球規模に推移するのが常です。しかし、昨今大学に「グローバル人材の育成」が声高に求められています。
 さまざまな発展段階にある世界の地域を一つの価値基準や時間軸の中に巻き込んだという点では、まさしく二次にわたる世界大戦と帝国主義の覇権争いこそが、近代におけるグローバル化の最たるものでした。一方で、世界分割の恐怖を避け、植民地の開放の基準になったのが、学問がもたらした科学、人権、民主、平和主義でした。現在ではそれに加えて、文化の多様性を主張することが重要であると思います。
 そこには、一つの基準やすべてを平準化することだけがグローバル化ではないという真実があることを知るべきです。価値観の多様化、多文化主義、それぞれの文化が持つ世界に貢献できる価値の発見こそ、大学が使命として掲げるべきものであります。かく考えて思い至るのが、先ほど申し上げました、國學院大學の母体である皇典講究所が設立された経緯です。当時の近代化、欧米への追随という抗しがたい時代背景がありました。そのなかでも、自らの拠って立つ基盤、自国の文化を究明することこそが重要であるという大学設立の思いは、いま改めて考え直す必要があるでしょう。
 皆さんは國學院大學の学生となりました。その誇りと自信を胸に、四年間の学修が当初の目的を達成し、これからの人生の「本ヲ立ツ」基盤となりますよう、ますますの研鑽を祈念して、学長告辞と致します。

                                     以上
 
 (平成26年4月2日 グランドプリンスホテル新高輪「飛天」にて挙行)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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