ARTICLE

神武天皇のチャレンジ精神、「人の代」を切り開く

『古事記』が語る神々の姿に学ぶ⑩

  • 神道文化学部
  • 全ての方向け
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

神道文化学部 教授 武田 秀章

2023年2月24日更新

 『古事記』上巻は、この世界の始まりから脈々と受け継がれてきた国作りを語る「神代」の巻、つまり「神々の時代」の伝えです。『古事記』中巻からは、いよいよ「人の代」が始まります。『古事記』講読の授業を長年担当する神道文化学部の武田秀章教授(神道史)は次のように述べています。「『神代』に形作られたこの国土で、『人の代』がスタートします。初代天皇の不屈のチャレンジによって、連綿と続く『人間の時代』の起点が、しっかりと据えられたのです」。

①「ヒーロー爆誕」「人生大逆転」 『古事記』は面白い

②失敗も成功も― イザナキ、イザナミの国生み、神生み

③愛する人との別れで定まった「死の宿命」と「世代交代」

④天の石屋戸神話が示す「出口が見えない暗黒」からの脱出法

⑤暴れん坊からスーパーヒーロー爆誕へ スサノヲの成長譚

⑥スサノヲからオオクニヌシへ 試練と継承の「国作り」

⑦神々の相互連携で進む大事業「国譲り」とは?

⑧地上の世界に稲の実りをもたらした「天孫降臨」

⑨「日向三代」がつなぐ天上・地上の絆

「八咫烏の飛来」齊藤ゆいか(神道文化学部学生)(作品の転載はご遠慮ください)

東へ ―天照大御神の「理想の国作り」目指してー

 『古事記』中巻冒頭、神倭伊波禮毘古(カムヤマト・イワレビコ)の命(のちの初代神武天皇)は、その兄神・五瀬命とこう語り合いました。

 「何地に坐さば、平らけく天の下の政を聞しめさむ。なほ東に行かむ」―天照大御神の理想の国作り・「水穂の国の」国作りを、この国土にあまねく及ぼさなければならない。いざ、旅立とう。東(ひむがし)のフロンティア目指して…。

 それはまさに、わが国「建国宣言」の言挙げにほかなりませんでした。

 伊波禮毘古は、五瀬命とともに、日向を船出しました。航海の難所「速吸の門」にさしかかるや、国つ神・槁根津日子(サオネツヒコ)が現れます。伊波禮毘古は、潮の道を熟知した国つ神に導かれながら、一路、浪速の津を目指しました。

伊波禮毘古に襲いかかる数々の試練

 ここから伊波禮毘古の苦難がはじまります。伊波禮毘古は、待ち構えていた登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)の迎撃をうけ、惨憺たる敗北を喫しました。この戦いで、兄神・五瀬命は重い矢傷を負います。瀕死の五瀬命はこう叫びました。

「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良からず。…今より行き廻りて、背に日を負ひて撃たむ!」。―われは日の大神の子孫、日の光を背に受けて戦うべきでであった。捲土重来、朝日注ぐ東海岸を目指そう…。

 この兄の言葉を受けた伊波禮毘古は、一旦退却し、紀伊半島の東海岸を目指します。その途上、矢傷が悪化した五瀬命は、無念の雄叫びを上げながら、みまかりました。それは痛恨の痛手でした。伊波禮毘古は、亡き兄の遺志も継ぎながら、南海の荒波を乗り越え、ようやく熊野の浜に辿り着きます。

 そこで待っていたのは、さらなる試練でした。熊野の山中に分け入るや、熊野の大熊の毒気に曝されます。つわものたちが次々に斃れ、伊波禮毘古自身も死の淵をさまよいます。伊波禮毘古の軍勢は、「山中他界」を思わせる熊野の魔界で、あやうく全滅のピンチに陥ったのでした。

天上からの加護、「天つ神の御子」としての復活

  伊波禮毘古の危急を救ったのは、天上の天照大御神から降された霊剣でした。この剣は、かつて建御雷(タケミカヅチ)の神が中つ国を平定した際、決定的な役割を果たした力溢れる霊剣でした。熊野の高倉下(たかくらじ)が、この「天上の霊剣」を伊波禮毘古に献ずるや、魔境の荒ぶる神は自ずから斬り倒され、毒気もことごとく止んだのです。

 「天上からの力」を身に受けた倭伊波禮毘古は、起死回生、「天つ神の御子」として甦ったのです。この場面以降、伊波禮毘古は一貫して「天つ神の御子」と呼ばれるようになります。

第2回古事記アートコンテスト(平成30年度)特選「天照大御神と八咫烏」長谷川さくら(作品の転載はご遠慮ください)

 伊波禮毘古は、やはり天上から遣わされた霊鳥・八咫烏の導きによって、熊野の森を脱出し、吉野の山を目指します。吉野に入るや、ご当地の国つ神たちが、伊波禮毘古の支援者として、次々に姿を現しました。伊波禮毘古は、吉野の国つ神の導きにより、ヤマトの喉元ともういべき宇陀の地に辿り着きます。その地を言向け、まつろはぬ者を退けたのち、無礼講の宴が催されました。そこで歌われた饗宴歌が、「久米歌」です。「久米歌」は、「久米舞」の歌詞として、大嘗祭の豊の明り(饗宴)において、歌い継がれてゆくこととなりました。

ヤマト平定と初代天皇の即位

 ヤマトに入った伊波禮毘古は、いよいよ宿敵・登美毘古(トミビコ)との最終決戦に臨みます。つわものたちは、口々に「撃ちてしやまむ」と歌いながら、勇ましく戦いました。伊波禮毘古は、「歌いながらの戦い」で、ついに浪速以来の宿敵を倒すに至ったのです。ここに先んじて天下っていた邇芸速日命(にぎはやひのみこと・物部氏の祖)も、追って馳せ参じました。

 こうしてヤマト平定を達成した伊波禮毘古は、畝傍山麓・橿原の宮で、「天の下しろしめす」初代天皇=神武天皇として即位します(「故、かく荒ぶる神等を言向け平和し、伏はぬ人等を退けはらひて、畝火の白橿原宮に坐しまして、天の下治らしめき」)。

 伊波禮毘古は、浪速以来の過酷な苦難、「死と再生」の試練を乗り越え、初代の天皇―神武天皇として、生まれ変ることができたのでした。そうした試練は、伊波禮毘古が「地上世界の統合者」としてステップアップするための、避けて通ることのできない道筋だったのです。

神武天皇の結婚と歌

「神武天皇の結婚」 齊藤ゆいか(神道文化学部生)(作品の転載はご遠慮ください)

 「天つ神の御子」がヤマトを治めるためには、その地の国つ神たちと、堅い絆を結び合わさなければなりません。すなわち建国達成を承けた「天つ神の御子」の次のミッションは、ヤマトを代表する「国つ神」、その娘との「結婚」でした。神武天皇は、三輪山に鎮まる大物主(オオモノヌシ)の神の娘・伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)に求愛します。

 そもそも三輪山の神は、かの大国主神の、国作りの守護神でした。まさにヤマトの「国つ神の雄」というべき神にほかなりません。

 神武天皇は、婚儀に際して、伊須気余理比売に美しい贈答歌を送りました。

葦原の しけしき小屋に 菅畳 いや清(さや)敷きて わが二人寝し
―原っぱの中の小屋、その管畳の上で、私たち二人は、はじめて結ばれたのです…。

 神武天皇と同じく、后の伊須気余理比売もまた、和歌の歌い手でした。この後、當藝志美美(タギシミミ)の命が反乱を企てた際、伊須気余理比売は、その三人の皇子たちに、歌で危急を知らせたのです。

狭井川よ 雲たちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす
―ヤマトの風雲が急を告げています。皇子たちよ、くれぐれも用心なさい…

 初代天皇とその皇后は、共々にやまとことばの精華たる「八雲の道」の歌い手でもありました。このことは、わが国の精神文化史上において、大きな意義があったと言えるでしょう。神武天皇は、わが国の初代天皇として、「神代」を承けた「人の代」の国のかたち-天皇がヤマトに都して列島を統治する「国のかたち」を、不屈のファイトで「創業」するに至ったのでした(神武創業)。その背景には、天上の神々の支援はもとより、地上の「国つ神」たちのボトムアップがあったことを、決して見落としてはならないでしょう。

 こうして「神代以来」の来歴を背負って、わが国の初代君主が誕生し、「地上国家」を治める「政(まつりごと)」が始まりました。ここに天照大御神の子孫たる歴代天皇が、代々「水穂の国」を治めてゆく時代が到来したのです。

●『古事記』講読の受講生の声

  • 建国までの道のりは、決して平坦なものではなく、何度も壁にぶつかり、どん底を経験するドラマ性が高いものです。人生において順風満帆とそう長く続くものではありません。この物語からは、目標を達成するためには、決して諦めない直向きな努力の継続が必要であることを学ぶことができました。
  • 神武天皇の旅路は、ロードムービー「すずめの戸締まり」の旅路と重なっています。いくつもの試練を乗り越え、兄の仇を倒し、ついに目標を達成する物語には、感動さえ覚えました。「スターウォーズ」や「ハンニバル」などの英雄伝説にも負けない、胸熱のストーリーだと実感しました。
  • 日本の神話は、主人公そのものの強さではなく、周りをいかに味方にできるかが重要になっています。「ワンピース」は仲間集めから始まり、「鬼滅の刃」も師匠と出会うところから始まります。農耕は、水の引き方をふくめ、一人ではできません。いかに協力し合うかがカギになってきます。天つ神・国つ神が集まることで展開する物語の根っこには、こうした稲作文化の暮らしがあるのではなかと考えました。

※武田教授担当授業での受講生のコメントをもとに再構成

 

 

 

武田 秀章

研究分野

神道史、国学史

論文

「御代替りを考える」(2020/03/24)

「明治大嘗祭再考―祭政と文明と-」(2019/11/15)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

MENU