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鉱害事件の事態収拾のために沈められた村

同時代に起きた四大鉱害、長期化するか否かの分岐点はどこに

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法学部教授 廣瀬美佳

2018年11月7日更新

渡良瀬川上流の足尾砂防堰堤。流出土砂の抑制などを目的として造られた。

渡良瀬川上流の足尾砂防堰堤。流出土砂の抑制などを目的として造られた。

 日本の大規模な公害は、鉱山採掘による「鉱害」から始まった。その代表が、四大鉱害といわれる足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)、日立鉱山(茨城県)、小坂鉱山(秋田県)での鉱害事件である。特に足尾銅山は、被害の発覚から事態の収束まで100年近くに及ぶ長期的な問題となり、日本の公害史全体を見ても極めて重要とされてきた。

前回の記事:「足尾と水俣が数十年にわたる大公害事件となった理由

「足尾銅山事件で教訓にしなければならないのは、事業者側の被害者対応の稚拙さです。企業がどれだけ誠実に被害者と向き合えるか。それ次第で、後々の企業の負担も、企業のイメージも変わるのです。それは、日立鉱山や別子銅山の鉱害被害に対する事業者の対応と比較することでもよく分かります」

 このように話すのは、國學院大學法学部の廣瀬美佳(ひろせ・みか)教授。当時の鉱害事件や、その被害者対応から学べることは何なのか。前回に続いて、足尾銅山事件を中心に振り返りつつ、他の鉱害事件と比較しながら考えたい。

 

JB廣瀬先生②

 

なぜ政府の調査でも「事業者責任」が追及されなかったのか

――前回、足尾銅山事件の発端について伺いました。1880年代、渡良瀬川の氾濫を契機に問題化すると、1895年に事業者側の古河鉱業(現:古河機械金属)は鉱害被害を主張する村々と「永久示談契約」を締結していきました。被害者にはそれなりの賠償金が支払われましたが、自分たちの事業が原因だとは認めなかったとのことでしたね。

廣瀬美佳氏(以下、敬称略) はい。加えて、根本的な「発生源対策」を行わなかったため、それ以降も渡良瀬川の氾濫とそれに伴う鉱害の拡大は続きます。被害住民は抗議のために多数で上京し、政府に対策を陳情する「押出し」を1900年までに4度行いました。

 第1次押出し(1897年)のあとには、政府も第1次鉱毒調査委員会を設置し、古河鉱業に対し「鉱毒予防命令」を出します。しかし、それは徹底されず押出しが続きました。

 政府側としても、被害を受けた農民の救済措置として「地租の減免措置」を行いました。1898年のことです。ただ、これは逆効果になりました。というのも、当時は納めている税金によって選挙権の有無が決まる時代です。そのため、減免によって選挙権を失う農民が出てしまったのです。さらに、租税も入らなくなったため地方自治が崩壊。これらが相まって、押出しは1902年まで続いたのです。

 第4次押出し(1900年)では、農民が官憲と乱闘を起こし、農民側を被告人とした刑事事件に発展します(川俣事件)。その後の田中正造による明治天皇への直訴事件などを機に、政府は第2次鉱毒調査委員会を立ち上げて調査を行いました。その結果は1903年に出たのですが、ここでも古河鉱業の事業が原因だとは認められませんでした。

 

足尾銅山、本山精錬所跡。

足尾銅山、本山精錬所跡。

――政府の調査でも、事業者側の責任が問われなかったわけですね。

廣瀬 その背景には、前回話した「殖産興業」の中で鉱業を伸ばしたい政府の思惑、そして事業者側と政府の癒着がみられます。

 当時、国の中で鉱業を管轄したのは農商務省でした。ちょうどその時期、農商務大臣に陸奥宗光(1844-1897)が就任するのですが、実は彼の次男は古河鉱業に養子で入っていたのです。

 また、後述する谷中村(やなかむら)への土地収用法適用・残存家屋の強制破壊の際、のちに総理大臣となる原敬(1856-1921)の名前が出てきます。彼はかつて陸奥宗光の秘書であり、古河鉱業の副社長も過去に務めていました。

 ここから分かるのは、いかに政府が鉱業を重視していたかということです。民営ではありましたが、殖産興業における外貨獲得の手段として非常に大きな意味をもっていたのです。そうした政府の思惑もあり、発生源対策が十分に行われなかったことが、足尾銅山事件をこれだけ長期化させた一因であることは間違いありません。

 

事態収束のため、被害の起きた村は「遊水池」となった

――なるほど。だからこそ政府は事業者側の責任を認めなかったと。

廣瀬 はい。そして鉱害被害への対応策として、被害が大きかった谷中村を中心に、この地域一帯を廃村にして治水する方向に話が進みます。村のある地域を沈め、貯水することで洪水を防ごうという考えです。その結果できたのが、今の渡良瀬遊水地なのです。

――今となっては、本当に信じられない判断ですね・・・。

廣瀬 はい。もちろん住民は反対しますが、谷中村の買収案は強行採決され、最後まで抵抗した住民の家々は強制破壊されました。これが1907年です。

 この後、住民反対運動の中心にいた田中正造(1841-1913)も亡くなり、遊水池化を契機にいったんは運動も沈静化します。そして足尾銅山は、1917年に史上最大の年間生産量を記録。この事実からも、当時の情勢と事業者側の振る舞いが分かります。

 

渡良瀬遊水地、旧谷中村の延命院墓地跡。

渡良瀬遊水地、旧谷中村の延命院墓地跡。

――それから、足尾銅山事件はどうなるのでしょうか。

廣瀬 谷中村をはじめ、いくつかの村が遊水池となった後、しばらくは事態が沈静化しました。ちょうど第一次世界大戦や関東大震災も発生し、住民が反対運動に注力できなかった面もあるでしょう。

 そして戦後になり、1958年、足尾銅山の源五郎沢堆積場が決壊したことから、鉱毒問題が再燃します。さらに、1971年には米がカドミウムに汚染されて出荷停止となります。事業者側が発生源対策を行ってこなかったために、こういった事態が起きたのでした。

 ここで被害農民は、中央公害審査委員会(のちの公害等調整委員会)に申し立てるなど、ふたたびアクションを起こします。

――その結果、どうなったのでしょうか。

廣瀬 1974年、同委員会が提示した調停案を古河鉱業と被害者団体が受諾し、調停は成立します。ポイントは、古河鉱業が初めて「公害源」としての責任を認めたこと。約39億円の損害賠償の申立てに対し、15億5000万円の補償金を支払うことで合意、汚染農地の土地改良などが図られました。

――なぜ、ようやくこのタイミングで事業者側は責任を認めたのでしょうか。

廣瀬 最初にこの問題が発生した1880年代から100年近く経っており、その間に水俣病などの公害も発生していました。そのため、公害に係る諸法律の整備が進んだり公害問題に対する知識・意識が高まっていたこともあるのではないでしょうか。

 

世界一の高さを誇る煙突、日立銅山での被害者対応

現在の日立鉱山の大煙突。もとは156mの高さがあったが、1993年に下3分の1を残して倒壊して、現在の姿に。

現在の日立鉱山の大煙突。もとは156mの高さがあったが、1993年に下3分の1を残して倒壊して、現在の姿に。

――なるほど。時代の変化も解決の要因になったわけですね。

廣瀬 とはいえ、この件から学ぶべきは、事業者が被害と真摯に向き合い、原因を絶たないと、後々対応に追われ、自分たちにも損失があるということです。長期で補塡をし続けるのは経営面でもマイナスですし、企業の不誠実な対応は悪いイメージで語られることにもつながります。

――被害者対応、そして発生源対策を怠ってはいけないということですね。

廣瀬 その意味で、比較したい事例があります。足尾銅山の問題が表面化した約20年後の1906年、日立鉱山でも、排煙による鉱毒被害が発生します。ただ、こちらについては、事業者が「被害者の救済」と「発生源対策」について真摯に向き合いました。

 まず、被害者の救済として、事業者みずから煙害に強い農作物や樹木の苗木を研究・開発しました。そして、それを被害農民に現物支給します。金銭面での救済だけでなく、現物も補償する形で、農業被害を減らす方策をとったのです。

 加えて、発生源対策にも注力しました。その象徴が、1914年に作られた巨大煙突です。当時世界一となる156mの高さを誇り、日立鉱山の標高325mの地点に建てられました。日立鉱山では、製錬時の排煙をこの煙突から出し、気流に乗せて希釈することにより、近隣住民への被害を減少させました。

 もちろん、これが根本的な解決になったとはいえません。環境への影響はゼロとはいえず、現代の尺度で見れば“不十分”な対応と思われるでしょう。しかし、100年前の技術や常識を考えると非常に誠実な対応であり、実際に事業者はかなりの努力をしたといえます。

――どんな努力でしょうか。

廣瀬 実は、鉱山側は、政府からの命令もあって、この煙突を作る前にも煙突を作っていたのですが、いずれも失敗に終わりました。そこで、彼らは自分たちで気球を打ち上げ、上空の気流を観測したのです。当時はまだ、今のような気象観測の技術がない時代です。その中で自ら高層の気象調査を行い、大煙突の計画を立てたのでした。

 完全に被害がなくなったわけではありませんが、1900年代初めに独自の研究をして得た技術で、被害を減少させたことは事実です。それは今でも高く評価されていますし、何より鉱害被害により悪化した事業者側のイメージの回復や技術の進歩など、彼らにとっても結果的にプラスで返ってきた部分もあるのです。

 

日立鉱山の大煙突を臨む。

日立鉱山の大煙突を臨む。

原因となるガスの中和技術を研究した、別子銅山のケース

――誠実に向き合うことで、その後の評価や語られ方も変わるわけですね。

廣瀬 そうですね。1890年代から起きた別子銅山の鉱毒問題でも、その“姿勢”はみられました。発生源対策においても、試行錯誤を繰り返しながら真摯に向き合っていたといえます。

 別子銅山は愛媛県新居浜市にありましたが、鉱毒被害が問題になったことで精錬所を「四阪島(しさかじま)」という無人島に移します。ただ、これは1904年のことで、やはりまだ気象観測の技術が十分ではありませんでした。四阪島に移した結果、瀬戸内海の海風の影響で逆に被害が広がってしまいました。

 そこで、まずは稲作への影響が懸念される時期には精錬所の作業を全面禁止するなど、住民への被害を抑える賠償契約を行います。さらに1929年には、原因となる亜硫酸ガスの濃度を減少させる「ペテルセン硫酸製造装置」を導入。ガスを中和させる技術を研究しました。

 そして、1939年には中和工場が完成。「発生源対策」を全うしました。そうして、煙害問題は収束します。途中で失敗もあったとはいえ、一貫して発生源対策や被害者の救済を続けていたことは明らかです。

 

別子銅山、東平(とうなる)索道基地跡。

別子銅山、東平(とうなる)索道基地跡。

――だからこそ、足尾銅山のような長期化を避けることができたわけですね。

廣瀬 はい。とにかく大切なのは「加害者がどう振る舞うか」という点に尽きます。日立鉱山や別子銅山は、「被害者の救済」と「発生源対策」を真摯に行ったことで、結果的に企業の負担もイメージも悪くならなかったといえます。

 一方、この2つが不十分なために長期化したのが、足尾銅山と熊本県水俣市での「水俣病」の集団発生です。世界的にも知られる水俣病の集団発生はなぜ起こったのか。次回、詳しくお話しします。

 

 
 

 

 

 

研究分野

民法、医事法、環境法

論文

医療における代諾の観点からみた成年後見制度(2015/06/10)

平成25年法律第47号による精神保健福祉法改正と成年後見制度 ―医療における代諾の観点から―(2014/03/31)

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