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水俣病の被害拡大はなぜ止められなかったのか

発生源対策を行わない企業、それを後押しした国の関係性

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法学部教授 廣瀬美佳

2019年2月5日更新

水俣市・親水公園にある慰霊碑

日本の「公害」を紐解く上で、避けて通れないのが熊本県水俣市で起こった「水俣病」の集団発生である。1956(昭和31)年に公式発見されたこの公害は、今も「水俣病」であると認められることを望む患者が後を絶たないなど、60年以上経っても、本当の収束には至っていない。

前回の記事:「鉱害事件の事態収拾のために沈められた村

「水俣病をめぐる問題が長期化した理由は、『加害者の振る舞い』が稚拙だったことに尽きます。つまり、加害者が行うべき『被害者の救済』と『発生源対策』について、きわめて対応が不十分でした。その背景には、当時の国策や地域の環境も影響していたといえます」

 こう指摘するのは、國學院大學法学部の廣瀬美佳(ひろせ・みか)教授。世界的な公害事件として知られる水俣病の集団発生、その裏にはどんな原因があったのか。廣瀬氏の解説とともに、改めて振り返る。

 

JB廣瀬先生③

 

公式発見の前から、被害を止める機会は何度もあった

――公害事件として多くの人が知る熊本県の水俣病ですが、改めて問題が起きた要因に迫りたいと思います。

廣瀬美佳氏(以下、敬称略) はい。水俣病は1956年に公式発見された病気で、体内に入った有機水銀により脳や神経が侵される有機水銀中毒です。事の発端は、チッソ(当時の日本窒素肥料、のちに新日本窒素肥料に社名変更)が熊本県水俣市に構えた水俣工場の工場排水に有機水銀の一種である「メチル水銀」が含まれており、これを摂取した地元の魚介類の体内に蓄積。その魚介類を食べた人々が、中毒症状を起こしていったのです。

 公式発見は1956年ですが、被害はそのずっと前から水面下で起きていました。メチル水銀が含まれた排水は、アセトアルデヒドの製造を行う際に発生するもので、この製造を水俣工場で開始したのは1932(昭和7)年にまでさかのぼります。

 これは後に分かることですが、最初の水俣病患者は、確認できる範囲でも1941(昭和16)年頃、すでにいたと考えられています。

――その頃から排水の問題が起きていたと。

廣瀬 そうですね。実は1942(昭和17)年の時点で、工場排水を原因とする大規模な漁業被害が発生しています。水俣病とはまた別のものでしたが、チッソは翌年1月に補償金を支払いました。しかし、チッソは、補償こそするものの、あくまで、問題の原因が自分たちの排水にあるとは認めませんでした。

 もし、このときから真摯に「発生源対策」を行うという姿勢を有していれば、水俣病もこれほど大きな問題にはならなかったでしょう。水俣病の過程を振り返ると、そのような分岐点がたびたび出てきます。

 具体的に事態が表面化したのは1950年代前半で、きっかけは猫でした。記録としてあるのは1953(昭和28)年、水俣の猫が狂い死にするケースが出てきます。発生当時、その姿から“ネコおどり病”といわれました。

 このような猫の狂い死にが相次ぎ、1955(昭和30)年には、水俣市の茂堂・月浦地区の猫が全滅するという事態にまでなります。当然ながら、これらはメチル水銀を含む海水や海の魚を口にした猫が、中毒死していったと考えられます。

――猫の被害を見ると、この時点で海には相当のメチル水銀が放出されていたのかもしれませんね。

廣瀬 先ほどの話に重なりますが、もしかすると、戦前から人的な被害が起きていたのかもしれません。

 この頃、漁民は排水による海の汚染について抗議していました。当時、水俣工場の技術責任者が、漁民から海の異変を指摘されて確認に行ったことを後に告白しています。そして、排水路近くに魚の死体などが多数見つかったことから、問題の可能性を上層部に報告したようです。しかし、結局それは内部で消滅しました。これも「発生源対策」に結びつかなかったのです。

 

猫400号実験で責任が決定的になるも、事実は公表されず

――そして、1956年に公式発見となりますね。

廣瀬 はい。水俣市内に住む5歳の女児が脳症状を訴えて病院で受診したのがきっかけです。この病院は、チッソの当時の社名である新日本窒素肥料の水俣工場附属病院でした。そして、女児の症状について、病院長が水俣保健所に報告した1956年5月1日が公式発見の日となります。

――チッソの附属病院で見つかったというのも皮肉な気がします。

廣瀬 チッソは水俣市の経済を一手に担う企業であり、附属病院も地域住民に開かれていたようです。こうしたチッソの存在は、水俣病の長期化にも大きく関わってきます。

 それについては次回話すとして、公式発見されたものの最初は「奇病」として扱われました。水俣市の医師会や保健所、市立病院などが対策委員会を結成しますが、それも「水俣市奇病対策委員会」という名前でした。

 その後、熊本大学医学部による「水俣病医学研究班」がつくられます。そして、結成から約3カ月後の11月には、チッソの工場排水による重金属に原因があるのではないかという「重金属説」を発表します。

――公式発見された年には、すでにチッソが原因である可能性を指摘していたと。

廣瀬 その通りです。しかし、チッソはこの説を真っ向から否定しました。実際に社長が会見で名言しています。チッソの「発生源対策」を行わない、というより「発生源であることを認めない」姿勢は一貫しており、水俣病の原因は、戦前に海軍が海に捨てた爆薬であるといった説も唱えました。

 一方、チッソは内部で工場排水が原因かどうか調べるために、猫に水俣の魚などを与えて経過を観察する「猫実験」を開始します。この実験は当時、公にされず秘密裏に行われます。

――つまり公式発見のあとも、具体的な責任ははっきりしないままだったんですね。

廣瀬 はい。その中で被害は拡大し、魚を多く食べていた漁民から罹患していきました。この騒動で魚が売れなくなり、それを処理するために漁民が魚を食べる。その結果、彼らが病気にかかるというスパイラルでした。

 一方、公式発見から3年後の1959(昭和34)年には、チッソの猫実験において有名な「猫400号実験」がスタートします。これは、工場廃液を猫の食事に直接かけて与え続けたもので、400号と名付けられた猫が開始3カ月ほどで痙攣発作などを起こしました。

 当時、実験を行ったのはチッソの附属病院の病院長であり、チッソに報告します。しかし、チッソは結果を公表しないこととし、実験の継続を条件に医師を説得しました。

 この事実は後に明るみに出て、裁判でも「水俣病隠し」として糾弾されました。再三にわたり発生源であることを認めない姿勢が、被害の拡大を引き起こしたのです。

 

高度経済成長の中で、企業も国も歯止めをかけなかった

――なぜここまで発生源としての責任を認めずに来られたのか、疑問も残ります。

廣瀬 ひとつに、この公害が食物連鎖により人間に被害をもたらすことです。工場排水は直接的に人間が摂取するわけではありません。まずその排水を魚が体内に取り入れ、そして魚を口にした人間が発病します。直接的な因果関係が誰の目にも明らかであれば、チッソもここまでの対応にはならなかったかもしれません。

 と同時に、やはりチッソという企業と国の情勢の関係も重要です。以前紹介した足尾銅山の公害と同様、こちらも時代や国の情勢が背景にあるのです。

――どういったことでしょうか。

廣瀬 重要なこととして、チッソは“日本の中核を担う”といっても過言ではない企業でした。戦前から戦中、軍部との強い関係の中で急成長すると、朝鮮半島での事業を中心とした一大“グループ企業”となります。

 その後、終戦で莫大な資産を失うのですが、引き上げてきた社員が残された水俣工場で再起を図りました。そして、実際に戦後復興から高度経済成長の間に業績を伸ばしました。

 戦後、それまでの産業に代わって台頭したのが化学繊維などの重化学工業であり、チッソは中核的存在となりました。水俣工場では、塩化ビニールやオクタノールの製造を日本で初めて行っています。

――当時の日本の産業の中心にいたのですね。

廣瀬 はい。そして、塩化ビニールやオクタノールの製造過程でアセトアルデヒドが必要であり、その排水にメチル水銀が入っていました。敗戦を経て高度経済成長期に入る中、中心企業にとってブレーキのかからない状態だったのかもしれません。それが、このような企業対応になったともいえます。公式発見のあと、たびたびアセドアルデヒドが増産されていることも、その事実を物語っています。

 問題は、チッソの振る舞いだけではありません。水俣病については、企業だけでなく行政の責任が密接に絡みます。

 たとえば公式発見から2年後、1958(昭和33)年には、「水質二法」と呼ばれる「公共用水域の水質の保全に関する法律」および「工場排水等の規制に関する法律」が定められました。また、熊本県には当時から「漁業調整規則」などもあり、これらによりチッソの操業を規制することは可能だったはずです。実際、のちの裁判でも行政はこのことを指摘されています。

――なるほど、確かに行政が何もしなかったのは問題ですね。

廣瀬 一度は、水産庁から水俣工場に対し操業一時停止や水の採取を要請しますが、工場は拒否しました。水産庁にはそれ以上の権限がないため、通産省に適切な措置をとるよう要請します。しかし、通産省は工業立国を重視したのか、対応しませんでした。

 さらに象徴的だったのは、1960(昭和35)年。経済企画庁が水俣病総合調査研究連絡協議会を発足させますが、第4回の会議を最後に自然消滅してしまうのです。

 工場排水が原因であることはチッソも内部実験でほぼ突き止めていましたが、内部で握りつぶした。さらに、そのような事態を本来止めるべき機関である国も、高度成長の中で歯止めをかけなかった。そうこうしているうちに、やがて新潟県の阿賀野川流域でも水俣病が発生することとなります。水俣病は、確実に人災なのです。

――足尾銅山の際も、殖産興業に力を入れる国策的な面との関連性を指摘されていました。これも非常に近いと感じます。

廣瀬 構造的に同じものを抱えていたといえるでしょう。国としての方向性、それを担う中核企業。こういった状況が大規模な公害を生みました。それは今の時代になっても普遍的に起こる可能性があります。

 ただし、水俣病についてはもうひとつ特徴があります。それが「地域の置かれていた環境」です。次回、水俣病の成り行きを追いながら、その点を見ていきます。

(つづく)

 

研究分野

民法、医事法、環境法

論文

医療における代諾の観点からみた成年後見制度(2015/06/10)

平成25年法律第47号による精神保健福祉法改正と成年後見制度 ―医療における代諾の観点から―(2014/03/31)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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