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伝わる言葉を育む国語教育を目指す成田教授の思いに迫る

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人間開発学部教授 成田信子

2019年2月6日更新

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    手書きで文章を書かなければいけないとき、正確な日本語がわからず筆が止まる……社会人であっても、そうした経験は珍しくないはずだ。SNSでの迅速なやりとりに慣れた学生だったら、なおさらだろう。パソコンを使う場合でも、長い硬質な文章をきちんと構成するということは、実はそんなに簡単なことではない。
 現代の日本語の変化、そこでやりとりされる瑞々しい感情を否定することなく、しかし一方で、いざという時に必要となる言語を教育していきたい――そう願って教壇に立っているのが、成田信子・人間開発学部教授だ。論理的な構成によるアカデミック・ライティングを学び始める新入生から、社会へ飛び出さんとする上級生まで、学生たちの日本語教育を一手に担っている。小学校教育の経験から、言語が人を、そして文化を形作ることを目の当たりにしてきたからこそ、その指導には熱がこもる。
 
 
 

 今の若い世代がSNSで使う言葉は、どんどん短くなってきています。たとえば授業に関してゼミ内で連絡を取り合っている時に、学生は「おけ」と一言で返すなどしています。「OK」の意味ですが、口頭で会話する時にも、こうした仲間内で共有している、簡単に伝わる言葉で話していることが多いわけです。
 私は小学校教員としての現場経験が長く、その後に大学で教鞭をとるようになりました。その経験から言うのですが、子どもが使う言葉も、あるいは学生が使う言葉も、決して頭ごなしに否定したり修正したりするのではなく、そこで何をいわんとしているのかを大事にしたいと思っています。
 
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    ただそうは言っても、狭いコミュニティの中で通じる言葉しか持っていないと、改まった場面で話さなければいけない時や、きちんとした文章を書かなければいけない時に、正しい表現がわからなくなってしまいます。言語が本来持っているはずの、人と人を繋ぐ役割が、そこでは失われてしまう恐れがありますね。
 私は現在、國學院大學の共通教育――いわゆる教養科目としての「基礎日本語」という授業を担当しています。人間開発学部では教員を志望する学生が多いので、大学初年次から国語力を積み上げて、教員としてあるいは社会人として自分でものを考え、表現することができることをめざして教育に取り組んでいます。
 「基礎日本語」では、実際に文章を書き、それを自己評価、学生同士による相互評価、教員からの評価と、複数の観点から見ていく――ということを繰り返します。内容・構成にかかわる評価指標・基準と、表記・表現にかかわる評価指標・基準があります。学生たちは、表記・表現に関しては比較的すぐにお互い指摘できるのですが、内容・構成に関しては、最初はなかなか正直に伝えることができません。今の若い世代はある意味でとてもジェントルなので、自己評価は厳しくつけても、他の人への評価は中庸なものにしてしまう、ということも多いのです。                                  
 お互いに批評し、きちんと誤りを正すことは国語力を伸ばすための重要なポイントですから、恐れずに相互に評価するように指導していきます。また、反論を想定しての論理構成などの“仕掛け”を伝えると、一気に興味を抱く学生もいます。論理的なアカデミック・ライティングを、こうした訓練を通じて学んでいきます。
 
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    そうした学修を積む中で、ぜひ伝えたいことがあります。もちろん、言語教育には、社会に出る時に役に立つ、という側面はあります。しかし、やはり大学での学びは、一過性のものにしたくありません。功利性だけでなく、根源的な興味を大事にしてほしいし、その上で言語と結びついた「文化」について考えてほしい、と思っているのです。
 私の専門は、国語教育のなかでも、文学教育および授業研究です。その関心から言っても、単なるコミュニケーションツールであるとか、コードとしての日本語だけではない、それぞれの言語と密接に結びついている「文化」を大事にしてほしい、と考えて指導にあたっています。
    ちょうど先日のゼミで、カナダの言語教育にかんする文献を読んでいました。カナダは英語とフランス語の二言語が公用語となっており、そうした言語政策が行われる背景には文化的な問題もあるわけですが、これから自身が教員として言語教育を行おうとしている学生のひとりが、言語=文化だと教えられた経験があまりない、と言っていて、衝撃を受けました。
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    初等教育以降の言語教育において、アウトプット型の、流暢なコミュニケーションを重視した教育だけを行ってしまうと、文化の側面が抜け落ちてしまうかもしれない、ということだと思います。
   言語には、必ず中身としての文化がある。たとえば今、地域によってポルトガル語やスペイン語を母語とする人たちが多く住むようになり、初等教育の現場でもそうした外国人の児童向けに「JSL(第二言語としての日本語、Japanese as Second Language)」という教育カリキュラムが組まれるようになっています。 そこで重要になるのも、やはり文化の問題です。私たちは秋に月を見上げて、「中秋の名月」などと言いながら「月見」という言葉で表現される文化を味わうわけですが、たとえばブラジルの人は同じ月を見上げてどう感じるのだろう、という話なのですね。
 文化のレベルで、お互いの深いところに、言語は結びついているはずです。表面的なコミュニケーションだけではなく、文化の観点を大事にしながら、大学での国語教育を届けていきたい――そう考えて、日々の教育にあたっています。
 
 
 
 

 

 

 

成田 信子

研究分野

国語教育

論文

文学を読み合うことで子どもの中に生まれるもの(2019/10/10)

リデザインで追究する文学の授業づくり ―登場人物との対話がもたらしたもの―(2016/03/04)

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