日本文化研究所

2016年4月6日更新

 國學院大學は昭和30(1955)年に、日本文化に関する精深な研究を行い、これを広く世界文化と比較しつつ、その本質と諸相を把握すべく「日本文化研究所」を設立しました。この「日本文化研究所」は、平成19(2007)年に、4つの機関からなる研究開発推進機構に改組されましたが、その機構内の研究機関の一つとして「日本文化研究所」の名称を継承したのが、現在の日本文化研究所です。平成27(2015)年に、設立60周年を迎えました。

 日本文化研究所は、國學院大學設立の趣旨並びに目的に従い、広く学術を総合して日本文化の研究及び国民の信仰・倫理に関する諸問題の研究を行うことによって日本文化の本質を明らかにし、併せて国内外研究者との交流・提携並びに相互理解を促進することを目的としています。
 この目的のために、日本文化研究所は5つの事業を行っています。

  1. 神道・国学及び宗教文化と、関連領域に関する研究
  2. 学術情報の発信
  3. 講演会及び講座等の開催
  4. 国内外の研究機関との交流及び連携
  5. その他、本研究所の運営に必要な事業

そして、これらの事業遂行のために、

  1. 神道・国学研究部門
  2. 国際交流・学術情報発信部門

の2部門を設置しています。

  • 所長挨拶

    所長挨拶

     日本文化研究所は平成19年度(2007)より従来とは大きく変わることとなりました。

     日本文化研究所を発展させて研究開発推進機構が設置され、かつこの機構の中の一機関としての名称を残す こととなりました。総合プロジェクトを中心としながら、研究を推進していきます。 昭和32年(1957)に第1号が刊行された『國學院大學日本文化研究所紀要』も19年度刊行の100輯をもって、 一つの区切りをつけます。今後は研究開発推進機構全体で研究成果の公表を図っていきます。 また昭和39年(1964)に発刊された「國學院大學日本文化研究所報」は、平成19年度からは 「國學院大學研究開発推進機構 機構ニュース」へとバトンタッチされます。

     19年度は日本文化研究所では、2つの総合プロジェクト、1つの専任プロジェクト、3つの兼任プロジェクトが 実施されていますが、このうち総合プロジェクト「デジタル・ミュージアムの構築と展開」では、機構全体の 情報発信の有機的連関を図っています。 日本文化研究所が蓄積してきた研究成果や学術資産、さらに今後研究開発推進機構によって実施される 研究成果や各種のデータベース等を、インターネットを通して国内外に発信していくシステムを整えます。 これにより、研究のみならず、教育における利用も積極的に推し進めていくことができます。 平成14年度に21世紀COEプログラムに採択されたことが、こうした変化の推進力となったわけです。

     20年度からは研究の場を学術メディアセンター(略称AMC)に移します。 グローバル化の時代に対応できるよう、広い視野にたっての日本文化研究を推進していく拠点にしたいと 考えています。

     ( 國學院大學・研究開発推進機構・日本文化研究所 所長 井上順孝 )

  • 設立の趣旨

    設立の趣旨

     本研究所設立の目的は、日本文化に関する精深な研究を行い、これを広く世界文化と比較しつつ、民族的伝統の本質と諸相とを把握するにある。

     人類の悲劇的相剋から出発した第二次大戦において、国史に例のない敗戦を喫し、社会組織と国民生活の徹底的崩壊に直面した日本人は、殆ど文化的虚脱と道徳的無感覚に陥った。その結果、国家再建の途は、外国の文化と慣習の移植をもって事足りるとするような風潮が見られ、特色に富む有形無形の日本文化財は正当に理解せられず、伝統的な生活態度も十分に再評価されるには至っていない。

     人は歴史と社会と文化の所産である。現実の日本人の性格は、気候風土の自然的条件や、早くからこの国に渡来した周辺民族文化との、同化複合によって醇化された、長い特色のある歴史的伝統の中で営まれている。何人もこれを無視して日本を論ずることはできない。近時、我が国の芸術や生活様式の数々が欧米諸国に異常な関心をもって迎えられているのに反し、外国文化の皮相的な模倣は、却って心ある内外人士の顰蹙を買うのを見ても、文化国家として出発した日本が、世界に貢献し得る道は、日本的伝統の反省と助長との裡に求むべきであることを考えずにはおられない。即ち、日本人が真に日本を知り、自主的判断によってその生活内容を高めて行くためには、日本人の歩み来った文化様式や生活態度に深い内省と関心とを払う必要が認められ、更にこの線に沿って、海外文化の長処導入とその日本的適応が要請されるのである。

     このことは、既に明治初年、外国文明移植の最も盛んであった時、等しく、先人の顧慮したところであり、我が國學院大學建学の由来もここに存する。しかるに現下の情勢は、当時に比し幾倍か重大であって、日本文化の将来を深く憂慮せずにはおられない。

     凡そ、一国文化の特質は、その国の文化を一方的に研究するのみでは、決して十分に明らかにせられない。歴史と伝統の異なる文化との比較研究において、始めて他に対する共通性や特異性が指摘され、その文化特質が明らかにされる。日本文化についても、その真髄を明らかにするためには、研究者は、日本文化の探究に専念すると共に、広く海外文化に眼を投じ、日本的道統を近代思想の場において再認識する必要がある。このような広い視野の上に立った研究によって、始めてよく日本文化の健全な生育発展が期待されるのである。ここに、同憂の士の協力を仰ぎ、新に日本文化研究所を國學院大學内に設け、従来の研究を一層精深広汎なものとし、学問の淵叢たるを期するものである。

     本研究所の研究主題は、

      一、日本文化の基礎的研究

      一、国民の信仰および道徳上の諸問題の研究

     とする。而してその事業内容は、

      一、学術上の調査研究およびその助成

      一、内外図書・資料の蒐集ならびに保管

      一、研究の発表・刊行ならびに講演会の開催

      一、内外研究機関との連絡および資料の交換

      一、その他目的達成に必要なる事業

     と定め、外国人の研究者に対しても便宜を図り、研究の結果は相交換発表して、国際的親善の一助ともしたい考えである。

     我等は戦後我が国における、日本精神文化の主要なる研究機関として、この事業が進展してその効果を発揮するようになれば、内外の文運に寄与することは多大であろうと信じ、切に識者の協賛を希うものである。

    昭和三十年四月
    國學院大學理事長 石川岩吉

  • 設立の経緯

    設立の経緯

    ※ 創立20周年概要より加筆再録

    設立の計画

     國學院大學に日本文化研究所を創立する計画は、昭和20年代の末から石川学長の直轄下に進められた。言うまでもなく当時のわが国は、6年余にわたる連合軍の占領から独立を回復したものの、在来の社会組織と価値観の崩壊がもたらす混乱から脱却しきれず、伝統的な日本文化に対する国民一般の関心と評価はあまり高いものとは言えなかった。そうした中で、経営母体・皇典講究所の解散および独立した法人としての再出発を経た本学は、様々な危機を克服しつつ、新学制への切り換え、大学院の設置など、次第に内容を整備しつつあったが、かねてから国民精神の変革と國學院の将来を憂慮していた石川学長は、建学の精神を継承して従来の学問伝統を展開させるため、学部における研究・教育の拡充と並行して、新たな調査研究機関の設立を希望していた。

     その試みの早いものの一つに、昭和28年以前にも「皇道研究所」(仮称)の計画があった。立案者・立案年月とも不明のこの計画は、大学内外から人材を集めて「皇典ノ研究、皇道思想ノ普及宣伝、学者学徒ノ養成補助」などを目的とする財団法人を設立することだったようだが、単なる構想以上には進展しなかった。

     これに対し、より具体的な企画は、わが国の独立回復後間もない昭和28年度に、「財団法人日本文化研究所」または「國學院大學日本文化研究所」という形で現れて来た。そのころ石川学長の側近にいた福田美知監事は、戦前から本学の監事であった明石照男氏の友人で、この人が学長の宿願に共鳴し、種々具体案を練ってその推進を進言したのであった。これら両案によれば、研究所は國學院と不即不離の関係をもつ財団法人にすることを予定しながらも、無理な場合は大学に付設して将来の展開をはかる心づもりであり、その目的は「日本文化の神髄を明かにし、その顕揚発展を図るため、神道学・日本文学・日本史学の精深な研究を行うことを主眼とし、兼ねて日本文化の一般におよぶこと」とされた。また、設立の諸事務は大学事業部が担当し、所長は大学理事長が兼ね、運営と予決算は大学理事会の承認を得るという構想で、建物・図書等の設備費や経常費は、大学自体の経済的基礎が強固でなかったので、財界その他の指定寄附により賄う予定であった。

     この研究所設立計画につき、最初から学長の諮問にあずかった学者は当時大学院で講座を担当していた柳田國男・岸本英夫・河野省三・武田祐吉(文学部長)の4氏であったが28年9月から1年余にわたる岸本氏の海外出講などあり、この段階での参画はまだ本格的ではなかった。役員関係では松尾三郎・小林武治・田中喜芳の各常勤理事と中村四郎理事・福田美知監事・藤井實参与があり、年度内に仮の研究所設立趣意書と予算書を作り、29年4月から開設する可能性を検討していた。福田・藤井・中村の各氏はまた、工業クラブでの財界の同志である清水潔・千田勘兵衛・高原丈夫氏等と“一金会”を組織し、毎月第一金曜を定例集会日として募金の懇談を重ねた。しかし、こうした努力にもかかわらず、朝鮮動乱終結後の国内経済はデフレの傾向にあり、財界での募金は意の如く進まず事態は一向に進捗を見なかった。そこで、このような情勢下に募金するには、先ず事業の一端だけでも実現に移す必要があるということになり、伊勢神宮に資金の懇請をした。懇請状は学長みずからの起草になるものであった。

    設立準備会

     その後、情勢は僅かながら好転した。かねてから岸本英夫氏を通じて連絡のあった米国ロックフェラー財団人文科学部長ファーズ氏が、29年春に本学を訪問したとき、研究所創立援助の申請がなされていたが、秋9月、同財団から3千ドルの欧文図書購入費寄附の通知を受けた。これを転機として同年11月、伊勢神宮からも開設資金として50万円が寄贈された。こうして昭和29年秋からようやく機運が高まった。そこで11月末、米国留学を終えて帰国した平井直房に設立に関する業務を嘱託し、旧校舎2階の柳田・堀教授研究室の一角に「研究所設立準備室」の標札を掲げて実務を開始した。

     具体的実務は、ロックフェラー財団寄贈金による哲学・宗教関係図書の買付けから開始され、財団当事者の諒解のもとに、31年度末までに390余冊が受け入れられた。右に並行してニューヨークの日本協会からも図書寄贈の申し出があり、340余冊が到着した。さらに米国大使館文化使節グレン・ショウ氏や元英国大使館付武官ピゴット少将からも相当数の教育・歴史関係書の寄贈があった。こうした海外からの図書寄贈については、岸本英夫氏ならびに藤井實氏に負うところが少なくない。

     この間にあって研究所開設の準備は、石川学長の病臥のため若干遅延の止むなきに至っていたが、所内の構成と運営の大綱は、米国で病を得て帰国静養中だった岸本英夫氏の好意により、腹案がまとめられた。やがて学長の健康回復を待ち、昭和30年5月17日、従前からの関係者が集まり、第1回創立準備会を開いた。この席上、岸本案による研究所機構が採択され、研究指導と財務関係の委員会が作られることになった。研究指導委員(のち研究審議委員と改称)には柳田・岸本・河野・武田の4氏が、財務(維持)委員に松尾・小林・田中・福田・藤井・中村・清水・千田・高原の9氏があたることになった。同時に研究所の基本的活動方針も討議されたが、その要点は次の通りである。

      1. 研究所は当分の間、日本の精神文化の研究に重点を置き、特に第一目標として固有信仰の精深な研究を行なう。

      2. “万邦無比”主義を排し、政治に左右されることのない学問の自主性を確保する(特に柳田委員が強調)。

      3. 国の内側からの研究を深く進める一方、広い視野に立って諸外国文化との比較研究をする(特に岸本委員が強調)。

      4. 研究員に任期を設け、期間中に必ず業績を提出させる。

     つづいて 6月17日、第2回創立準備会が明治記念館の憲法制定の間で開かれた。将来における財団法人への展開に備えて研究所理事を置くこととし、学界から岸本英夫・武田祐吉の両氏、維持委員側から藤井實・千田勘兵衛の両氏、大学側から石川岩吉・松尾三郎・福田美知の3氏が選ばれた。またこの理事会の成立とともに、所長に石川学長、主事に平井直房が選ばれ、研究所全体の研究主題は、「日本文化の基礎的研究」、「国民の信仰および道徳上の諸問題の研究」の2つにに整理された。創立準備会はいま一度、7月1日に同じ場所で開かれている。その席上、設立趣意書と研究所規程の審議があり、30年4月付けで印刷に付された。この趣意書は研究所の設置目的を明示するものである。

  • 刊行物

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