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東アジアと連動していた百舌鳥・古市古墳群

ゼロから学んでおきたい「古墳」①

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文学部准教授 青木 敬

2019年7月9日更新

 国内最大規模の大山古墳(伝仁徳天皇陵)などからなる百舌鳥(もず)・古市古墳群が、ユネスコの世界文化遺産へ登録されたことで、「古墳」に注目が集まっています。国内には十数万基あるとされる古墳ですが、その実像はさほど知られていません。奈良文化財研究所で経験を積み、國學院大學で古墳研究を続ける文学部史学科の青木敬准教授に、「ゼロから学んでおきたい 古墳」としてお聞きします。

上空から見た百舌鳥古墳群=大阪府堺市

権力を見せつけるために巨大化

Q 百舌鳥・古市古墳群について教えてください

A 大阪府南部の堺市、藤井寺市、羽曳野市に90基ほど点在するのが百舌鳥・古市古墳群です。墳丘長が400mを超える大山古墳などの巨大な前方後円墳も含まれ、世界文化遺産の対象には49基が選定されています。4世紀後半から5世紀後半が成立時期で、一人の権力者が巨大古墳を造り、後継者が先代をまつると同時に自ら別の巨大古墳を築造するという繰り返しで古墳群が形成されたと考えられます。

Q 百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産として認められたのはなぜでしょう?

A 形のバリエーションが豊富な点=解説図参照=が注目されました。前方後円墳という「形」が百舌鳥・古市には多いのですが、この形は東アジアの墳墓では非常に珍しく、日本列島と深く関わる人物が葬られた例が朝鮮半島の一部地域にあるだけです。このほか、百舌鳥・古市古墳群には円墳や方墳、帆立貝形古墳も存在します。墳形がほぼ一つしかない他国の人から見れば驚きでしょうね。

Q 百舌鳥・古市古墳群には数代の大王墓も含まれますが、どのような時代でしたか

A 4世紀後半から5世紀後半は、中国大陸に強大な統一国家が不在で、朝鮮半島でも勢力争いが続いていました。倭(やまと)王権(※1)は中国の南朝に使いを派遣し、中国の史書に「倭の五王」(※2)という記述が出てくる時代です。朝鮮半島南部に有していた権益を中国に認めてもらいたいという狙いが倭国にはありました。激動の時代を迎えた東アジア諸国との関わりの中で出現したのが百舌鳥・古市古墳群だということです。このため、列島各地の勢力のみならず大陸や半島から来訪する人々の目線も意識して造られたともいえるでしょう。

※1 倭王権 古墳時代(3世紀後半~6世紀末)に奈良盆地に勃興した政権。大王(後の天皇)を頂点とし、各地の豪族と連合して勢力を拡大した。稲荷山古墳(埼玉県行田市)から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)とのつながりを示す銘文が刻まれており、5世紀後半には東日本まで勢力を拡大していたことが分かる。

※2 倭の五王 南北朝時代に中国南部を支配した南宋(420~479年)へ朝貢したとされる倭国の大王を指す。『宋書』に登場するのは讃・珍・済・興・武の5人。5世紀末に在位した雄略天皇を「武」にあてる説が有力で、その他の王には応神天皇、仁徳天皇、反正天皇、允恭天皇、安康天皇が候補に挙げられている。

 

内向きの視点から転換し巨大化

Q 百舌鳥・古市古墳群には大山古墳などのように古墳時代前期と比べ巨大古墳が多く見られますが

A 巨大な墳丘を見せつける対象が変わったと考えるのがよいかもしれません。前方後円墳のはしりとされる箸墓古墳(※3)は纒向(まきむく)遺跡(※4)という巨大な集落の中にあり、明らかに集落からの眺望を意識して造られています。被葬者が本拠とした、あるいは古墳を作った集団が暮らしたりした場所を強く意識しているのではないでしょうか。王権の誇示のみならず集団の結束を示す、どちらかというと「内向き」の観念です。

 ところが、百舌鳥・古市古墳群が造られたころになると、墳丘を見せる対象が変わります。海寄りにある百舌鳥古墳群の巨大な前方後円墳は、1㎞離れた大阪湾からでもはっきりと見えます。海を渡ってきた人や列島の他の勢力に対し、「ここには巨大な権力がある」と見せつける必要が出てきたということです。その理由は鉄資源が欲しいから。朝鮮半島の高句麗が南下政策を取るなど東アジア情勢が大きく変わりつつあった時代ですから、倭王権にとって武器、武具、馬具などの素材となる鉄資源が生命線となるわけです。当時の日本列島には鉄を加工する技術はありましたが、肝心の鉄資源がなければ武器や武具などを生み出すことは不可能です。現在の研究では朝鮮半島南部から鉄資源を輸入していたと考えられていますが、武力だけでなく、ここに大きな権力があることをはっきりと示す巨大な古墳にしなければならないのです。つまり、古墳に対して「外向き」の観念が強まったのではないかと考えられます。

 

Q 神戸にある五色塚古墳(※5)も海から見えますが

A 海からの視点は間違いなく意識しています。五色塚の墳丘斜面は多くの石で覆われていますが、対岸の淡路島からわざわざ運ばせたことが分かっています。古墳を造ったのは水上交通に深く関わる氏族だったと考えられ、本州側だけでなく淡路島を含む海峡一帯に勢力圏が及んでいることを誇示したのでしょう。

※3 箸墓古墳 奈良県桜井市に所在する前方後円墳で墳丘長272m。3世紀後半の築造で、最古級の前方後円墳とされる。宮内庁は第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とする。纒向遺跡の中心的な古墳として知られ、邪馬台国の卑弥呼の墓とする説もある。

※4 纒向遺跡 奈良県桜井市に所在する弥生時代末期~古墳時代前期の集落遺跡で、倭王権発祥の地とする説が有力。平成25年時点で東西2㎞、南北1.5㎞が調査されているが全体の2%にも満たないという。遺跡からは2000個を超すモモの種やアジ、サバ、タイなどの魚の骨が出土して注目された。遺跡内に箸墓古墳などの大型前方後円墳も含む。

※5 五色塚古墳 神戸市垂水区に所在する前方後円墳で墳丘長194mは兵庫県で最大。古墳時代前期末頃の築造で、昭和40年から10年かけて築造当時の姿が復元された。3段に分かれた墳丘斜面には葺石が敷き詰められ、各段には2200体の埴輪が並べられる。

五色塚古墳の墳丘から対岸の淡路島を望む。明石海峡大橋と古代と現代の巨大建造物のコラボレーションだ=神戸市垂水区

戦後の高度経済成長で姿消した古墳も

Q 世界遺産登録でお祝いムードもありますが

A 古墳を考える上で、埋葬施設としての機能や当時の政治体制・暮らしぶりを研究するのとは別の側面もあることを忘れてはいけません。以前は文化財に対する認識が十分に浸透しておらず、古墳から取った土の方が土地よりも高く売れた時代もありました。「土を取って平らにしたら家を建てられるから二度美味しい」という勢いで、どんどん宅地にされてしまいました。百舌鳥古墳群のイタスケ古墳も池に囲まれた環境を売りにしようと造成が始まりましたが、保存運動が起きて中止に追い込まれています。百舌鳥・古市古墳群は戦後の文化財保護の歩みを考える上で重要な存在となっています。

 一方、百舌鳥・古市古墳群で緊急調査が増えたために考古学が進歩したことも事実です。宅地化によって消滅した経塚古墳という帆立貝形古墳から多数の埴輪が出土したのですが、この埴輪がその後の研究に大きな役割を果たしました。

 経塚古墳の埴輪を研究したのは私の國學院大學での師匠・吉田惠二先生(※6)で、雑誌『考古学研究』に掲載された「埴輪生産の復原」という論文が埴輪研究の大きな画期となりました。吉田先生は5世紀に朝鮮半島から伝わってきた須恵器(※7)に注目し、須恵器を焼く窯で埴輪も焼くようになったために窯に入るサイズまで埴輪が小さくなったこと、円筒埴輪の表面に残る痕跡などを手掛かりに円筒埴輪製作に従事した工人と生産体制を推定しました。百舌鳥古墳群や古市古墳群の古墳研究は巨大古墳だけがターゲットだったのではなく、消滅した数多くの古墳のデータからも研究が進められたことを強調しておきたいと思います。

※6 吉田惠二 よしだ・えいじ(1947~2014)、日本の考古学者。京都大学文学部史学科で考古学を学び、後に國學院大學で教鞭を執る。主な論文に「埴輪生産の復原-技法と工人-」(『考古学研究』19-3、1973年)、「中国古代に於ける円形硯の成立と展開」(『國學院大學紀要』30、1992年)、「絵巻物に描かれた硯」(『人文科学の伝統と創造 國學院大學大学院文学研究科創設五〇周年記念論文集』、國學院大學、2002年)、がある。18年に古代の文房具に関する『文房具が語る古代東アジア』(同成社)が刊行された。

※7 須恵器 古墳時代から平安時代にかけて生産された土器。朝鮮半島から伝わった轆轤(ろくろ)と窖窯(あながま)を用いて作られ、それまで日本列島で作られてきた土器(縄文土器~土師器)と違って青灰色を呈して硬いことが特徴。大阪府南部の丘陵地帯には日本三大古窯の一つに挙げられる陶邑窯跡群がある。

青木 敬

研究分野

日本考古学(古墳時代・古代の考古学)

論文

考古学における三次元計測技術の導入と利活用―古墳時代・古代における用例を中心に―(2018/11/30)

일본 고대 도성 조영의 진제(鎮祭)와 수변(水辺)의 제사(2018/06/01)

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