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古墳を巨大化させた技術革新・・・そして終焉へ

ゼロから学んでおきたい「古墳」③

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文学部准教授 青木 敬

2019年7月23日更新

 4世紀後半から5世紀後半にかけて造られた百舌鳥(もず)・古市古墳群は突如として巨大化します。その理由について國學院大學文学部史学科の青木敬准教授は「中国大陸や朝鮮半島などをはじめとする、外からの視線を意識したため」としていますが、巨大化にはかなりの技術力が必要です。また、さほど時を経ずに巨大古墳は姿を消し、古墳そのものの在り方も変わってきます。「ゼロから学んでおきたい 古墳」の3回目としてその辺りをお聞きします。

①東アジアと連動していた百舌鳥・古市古墳群

②日本人の精神世界にもつながる古墳

U字形鉄刃付きスコップで土を切り出す

Q 古墳を造る技術にも変化はあったのでしょうか

A 古墳を大きくするための技術で注目しているのが土の積み上げ方です。当時、先端だけに鉄製の刃がついたU字形のスコップがありました。この工具が古墳時代中期に朝鮮半島から入ってくるのですが、これが出てきたことで採土の方法が大幅に変わりました。

 それまでは方形板刃先といって先端が一直線で角形の刃、いまでいうと鋤簾(じょれん)のようなものを使って土を「削る」だけでした。それでは土がフレーク状になってしまうし、盛り土に使うには圧縮しなければならない。またそれで得た土はたいした量とはならないので、労力のわりには大きな古墳はできません。つまり、削って得た土だけを盛れる大きさの古墳しか造れなかったわけです。

 ところが、鉄製のU字形刃先が付いたスコップだと土に深く差し込んでブロック状に「切り出す」ので、土をフレーク状にすることなく硬い状態のまま別の場所に移し替えることができるので効率的です。こうした作業を繰り返し、同じ労力でも相当大きな古墳を造ることが可能となったのです。それが百舌鳥・古市の古墳を巨大化させた背景にある技術力のひとつではないかと考えています。

大阪府堺市の大山古墳

10年以上の調査で一番の成果

Q 古墳を巨大化させた技術革新は凄いですね

A 切り出した土を使い始めた最初の例が、津堂城山古墳という古市古墳群最古の前方後円墳になります。これは墳丘が200mぐらいしかないのですが、伝統的な手法で墳丘を造っている半面、周濠の堤に切り出し土を使っています。時代が下ると百舌鳥・古市古墳群では墳丘本体にも切り出し土が使われる例が増えます。

 住宅化で消滅してしまったのですが、大塚山古墳(※1)という前方後円墳にも切り出し土が使われていました。最後に残された前方部を1980年代に調査した際、堺市の担当者が「今までの造り方と違うのでは」と指摘したのが、ブロック状の土塊を積み上げる工法が考えられ始めたきっかけとなりました。

 堺市が10年以上も調査を続けてきた中で、切り出した土を積んだ古墳が多いと判明した部分が、古代の土木技術を考えるうえでもとても重要な成果といえます。切り出したブロック状の土なら煉瓦を積むように急傾斜で積めますから、硬くて急傾斜の建造物を造る技術的な素地は百舌鳥・古市古墳群の段階で定着したのでしょう。

 巨大前方後円墳のはしりとされる箸墓古墳の築造が3世紀中頃で、百舌鳥・古市古墳群の登場まで100年強。技術革新の過程が分かるので、古墳を巨大化させた土木技術的な背景を考える上でも百舌鳥・古市古墳群の存在は大きな意味を持っています。

※1 大塚山古墳:堺市西区に存在した前方後円墳で墳丘長168m。上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)の南方に位置し、百舌鳥古墳群で5位、全国で54位の大きさを誇ったが、戦後の宅地開発で濠を含めて姿を消した。勾玉や銅鏡、武具などの副葬品が大量に出土した。

価値観が激変し巨大古墳が消滅

Q 東アジア情勢の変動を受けて誕生した巨大古墳はその後どうなるのでしょう

A 基本的には5世紀中頃から後半で超巨大な古墳はなくなります。古墳の価値観が変わってきているのです。替わって5世紀末ごろから、日本の古墳は長さより高さを重視する東アジアのスタンダードを取り入れるようになります。日本の古墳が東アジアの古墳と関連している一つの根拠として、長崎県の壱岐をはじめとする各地に高さを重視した古墳が増加する点を指摘できます。壱岐は地理的に朝鮮半島に近いだけでなく、外交に従事した氏族もいました。壱岐以外にも外交に携わる氏族がいたのは確実ですので、彼らを中心に大陸や半島で主流だった高さを重視する古墳を造り始め、継承していったと推測されます。

壱岐の古墳は高さを重視した急傾斜の墳丘が特徴=長崎県壱岐市の掛木古墳

Q 変化の理由はどの辺りですか

A 倭(やまと)王権と朝鮮半島の諸勢力とは敵対したり接近したりを繰り返していました。渡来人の活発な往来もありました。こうしたことから、互いの情報は相当知っていたはずです。半島のさまざまな勢力と日本各地の勢力が結びつき、種々の情報を仕入れるようになっていくと、長さにこだわる墳丘を造ることが無意味に思えたのでしょう。そこで大陸や半島のスタンダードを敢えて導入し、より高い墳丘とした上で日本の伝統的な形を再構成するという方向に、6世紀以降の古墳はシフトしたと思われます。

倭王権の支配が進み古墳終焉の時が

Q 巨大古墳が姿を消した後は

A 古墳時代後期になると群集墳(※2)が大量に築造されます。古墳の数(※3)は全国に十数万基あるとされ、都道府県別では兵庫県がトップです。その数を押し上げているのが群集墳で、古墳を考えるうえで非常に重要な存在になります。群集墳は同時多発的に築造されることを特徴とします。

 実は日本にある古墳の9割以上がこうした群集墳の小さな古墳で、それが数十基から多い場合には数百基以上も集まります。およそ5世紀ごろに出現したものを出現期群集墳、6世紀の古墳時代後期から前方後円墳が造られなくなった以降まで盛んに築造されるので後・終末期古墳とも呼ばれます。これは同時多発的に造られる点が一番重要です。

 大山古墳(伝仁徳天皇陵)のような巨大古墳は強大な権力者が一世一代に築造するものですが、群集墳は全く違います。血縁集団の中でとある家長的存在の人物が死んだから造り、また別の家長クラスの人物が死んだから造るといったかたちで同じ地域に次々と造られていくので、数十年の間に相当数にのぼる古墳が造られていきます。先に同時多発的と呼んだのは、こうしたことが理由です。

Q 小規模な古墳が増えたわけは?

A 倭王権の影響力がより広域に及び、群集墳を造る階層にも直接的な支配が及んだ証拠だと考えられます。支配者層ではない階層にも王権の直接的な支配が及び始めたからこそ、古墳を造る風習が共有されるようになったのでしょう。王権が支配を従来にもまして確かなものとする段階に入ったということもできます。そこまで支配が行き届くと、次の段階は身分の上下に関係なくすべての人間の個人情報を吸い上げるシステムとして戸籍の制度が始まります。各地に住む一人一人の情報を把握し、今風に言うと出入国管理ができる時代になると群集墳もなくなっていくのです。列島を支配する必要性から発生した古墳ですが、支配のシステムが整えば不要になったということです。

 6~7世紀という群集墳が爆発的に増えた時期に、長野県の松本平で築造された穂高古墳群(※4)を國學院大學は10年以上にわたり調査していますが、時代の転換点に立つ遺跡を調査できるという点でも非常に面白いと感じています。

※2 群集墳 狭いエリアに密集して同時多発的に築造された古墳群で古墳時代中期に出現し、後期以降爆発的に増加した。小規模な円墳や方墳で構成されるのがほとんどで、大阪府柏原市に所在する平尾山古墳群では1200基を超す古墳が確認されている。

※3 古墳の数 文化庁がまとめた埋蔵文化財関係統計資料の「周知の埋蔵文化財包蔵地数」(平成28年度版)によると、全国には15万9623基の古墳・横穴が確認されている。都道府県別では、①兵庫県1万8851基②鳥取県1万3486基③京都府1万3016基④千葉県1万2765基⑤岡山県1万1810基-となっている。一方、北海道、青森県、沖縄県には古墳・横穴が確認されていない。

 

※4 穂高古墳群 長野県安曇野市に所在する群集墳。北アルプス穂高連峰から流れ出す河川が作った扇状地の扇頂部に80基ほどが分布し、A~F群に分けられる。國學院大學の鳥居龍蔵博士が「ドルメン式古墳(支石墓)」と提唱した魏石鬼窟(ぎしきのいわや)も含まれる。

 

 

 

青木 敬

研究分野

日本考古学(古墳時代・古代の考古学)

論文

桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳の墳丘復元とその評価(2024/03/22)

薬師寺東西塔の建立と移建ー発掘調査成果が提起する諸問題ー(2023/04/20)

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