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日本人の精神世界にもつながる古墳

ゼロから学んでおきたい「古墳」②

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文学部准教授 青木 敬

2019年7月16日更新

 國學院大學で古墳研究を続ける文学部史学科の青木敬准教授にお聞きする「ゼロから学んでおきたい 古墳」の2回目は、「古墳」そのものについてお聞きします。百舌鳥(もず)・古市古墳群がユネスコの世界文化遺産(※1)へ登録されたことで注目が集まっていますが、古墳とはどのような意味合いを持つ施設か? いつごろ造られたのか? その特徴は? 知られざる実像を紹介します。

①東アジアと連動していた百舌鳥・古市古墳群

③古墳を巨大化させた技術革新・・・そして終焉へ

奈良県桜井市にある箸墓古墳

偉い人が権力を〝のれん分け〟

Q そもそも古墳とはどのようなものでしょう

A 有り体に言えば、「昔の偉い人のお墓」です。人間を葬るお墓としての機能は勿論ですが、それ以外の役割が大きい施設ともいわれていて、古墳構築や埋葬にかかわる儀式で何度も繰り返しています。

Q 古墳が造られたのはいつごろでしょう

A 3世紀の中頃を始まりとするのが通説です。7世紀まで続いたとする説もありますが、一般的には「古墳時代=前方後円墳の時代」です。前方後円墳は6世紀後半~末頃に終焉を迎えたとされます。前方後円という墳形自体は弥生時代からありますが、巨大な墳丘が出現して「古墳時代」が始まったのは倭(やまと)王権が勃興した地であり、大王の出現を意味する箸墓古墳からだろうといわれています。

 箸墓古墳だと墳丘の長さが約280mあります。興味深いのは、その「そっくりさん」が西日本各地に存在することです。サイズが2分の1とか4分の1の相似形とはいえ、そっくりさんを造るには設計図や技術者が必要になってきます。つまり、巨大な前方後円墳を造る王権と一定程度の関係があり、設計図や技術者を派遣してもらえる有力者が地方に存在したのです。倭王権とのつながりを明示したモニュメントが前方後円墳だったということになります。先に述べたとおり、それが6世紀の後半から末にかけて一斉に造られなくなります。おそらく、大型の前方後円墳を築造する行為自体に意義が失われていったのでしょう。

Q その変化はなぜ?

A 雄略天皇とのつながりが記された埼玉(さきたま)古墳群(※2)の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)の銘文を見れば、5世紀後半には王権と各地の有力者がかなり強い結びつきをもっていたことが分かります。さらに6世紀になると、王権に仕奉する見返りとして王権が各地の有力者を国造に任命し、地域支配を認める国造制が成立します。その後さらに、列島を広く支配するための手段として仏教や漢字、律令(※3)などを導入します。王権との関わりを明示するシンボルを前方後円墳に求める必要はなくなっていったのです。

※1 世界遺産 1972年に成立した「世界遺産条約」に基づき、「地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から現在へと引き継がれてきたかけがえのない宝物」として、ユネスコが登録する文化財・景観・自然など。「文化」「自然」「複合」の3カテゴリーがあり、2018年7月時点で文化845件、自然209件、複合38件が登録されている。

※2 埼玉古墳群 埼玉県行田市に所在する古墳群で、前方後円墳8基、円墳1基が現存。稲荷山古墳からは倭王権とのつながりを示す金象嵌(きんぞうがん)の銘文が刻された鉄剣が出土している(国宝・金錯銘鉄剣)。現在は国史跡に指定され、周辺は「さきたま古墳公園」として整備されている。

※3 律令 法体系の一つとして中国から東アジア一帯に広がった法治国家の根本となる成文法。刑法である「律」とその他の「令」からなり、古代日本では7世紀後半の「飛鳥浄御原令」に始まり、その後8世紀に「大宝律令」「養老律令」などが制定された。

 

バリエーション豊かな「形」も特徴

Q 古墳にはさまざまな形がありますね

A 大山古墳(伝仁徳天皇陵)に代表される前方後円墳が最もポピュラーと思われますが、これは弥生時代の周溝墓(※4)から発展したと考えられています。埋葬する場所を溝によって区切った周溝墓は、出入口として陸橋状の部分をつけていますが、その陸橋部分が儀礼のステージとして大きく長くなり、前方部に変化したと思われます。

 日本列島で造られた古墳の総数は十数万基といわれますが、そのうち前方後円墳は数千基程度で、圧倒的多数を占めるのは円墳です。逆にいえば、数が少ないことこそ前方後円墳が古墳の序列で最上位に位置することの証しでもあります。前方後円墳に納められる副葬品も、上位の支配者にふさわしく質と量が充実しており、前方後円墳の優位性を裏付けています。

 前方後円墳を造ることが許されなかった階層の人は、必然的に円墳や方墳を造るしかないというわけです。百舌鳥・古市古墳群にもありますが、帆立貝形古墳と呼ばれる前方後円墳の前方部を小さくかつ低くした古墳が4世紀後半ぐらいから目立ってきます。このころになると、倭王権が各地の有力者層をさらに序列化するために新たに前方後円墳の下位に位置付けるために創出した墳形と考えられます。このほか、前方後方墳、八角墳、上円下方墳などバリエーション=解説図参照=が豊かな点も、他の東アジア地域では見られない古墳の特徴といえます。

※4 周溝墓 弥生時代にみられる墓制で、円形や四角に盛り土をした墓(墳丘墓)の周囲を溝を被って囲んだもの。國學院大學の大場磐雄博士が昭和39年に手がけた宇都木向原遺跡(東京都八王子市)の発掘調査で確認され、「方形周溝墓」と命名された。

 

「黄泉の国」の原点は古墳にあり?

Q 古墳には形以外にも特徴的な部分があるのでは

A 古墳の周辺には焼き物の埴輪(はにわ)が並べられます。元々は円筒形や朝顔形というシンプルな、弥生時代の壺や壺を載せるスタンド(器台)から変化したと思われる物が並んでいましたが、4世紀後半ぐらいから動物とか武器や武具、家といった身近な物をかたどった埴輪を並べるようになります。おそらく、被葬者の生前の活動などをジオラマのような形で残す機能もあるのでしょう。被葬者の生前を顕彰する意味合いも古墳には込められているのです。

 時代が下ると墳丘の裾に張り出すように設けられた「造り出し」が出現し、ここに埴輪が集中して置かれします。当初は墳丘の天辺を中心に置かれていた埴輪ですが、時代が下るとその多くが墳丘の下に降りてくるのです。時代によって古墳の構造は変化しますが、その時代ごとに埴輪が置かれる儀礼のステージ(舞台)が造られます。古墳にとって埋葬にともなう儀礼は、埋葬とならんでとても重要な要素だったといえるのです。

復元された今城塚古墳の埴輪群=大阪府高槻市

Q 死者をまつることで精神世界に繋がる部分もあるということでしょうか

A 古墳は死者を埋葬する施設ですからね。朝鮮半島から横穴式石室が伝わると、墳丘の横から通路を使って埋葬場所である石室内に何度もアクセスできるようになります。つまり死者の世界に簡単に立ち入れるようになり、死に対する意識も急速に強くなっていったでしょうね。石室に至る通路が長くなると、「奥の暗がりに死者の空間がある」という意識が一層強まり、それが古事記、日本書紀など日本神話で語り継がれてきた「黄泉(よみ)の国」という発想の原点にあるとする研究者は多いですね。

 古墳とは、各地の有力者とのつながりといった政治的な動きを見るだけでなく、当時の人々の他界感を考える上でも重要な資料であることは間違いありません。

 

 

 

青木 敬

研究分野

日本考古学(古墳時代・古代の考古学)

論文

桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳の墳丘復元とその評価(2024/03/22)

薬師寺東西塔の建立と移建ー発掘調査成果が提起する諸問題ー(2023/04/20)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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