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渋谷の開発が終わることはない!?
戦前、戦後、いつの時代も渋谷はメタモルフォーゼし続ける ~Part2~

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経済学部 教授 杉山里枝

2019年7月12日更新

人々の思惑を超えて、時代とともに巨大化する街
渋谷は、まるで自らが意思を持っている生命体のような存在

 “100年に一度”と言われるほどの再開発を進めている渋谷。
 平成25年春、頭端式ホーム4面4線の東急東横線渋谷駅のホームが廃止され、渋谷ヒカリエ地下5階に移って以降、渋谷の駅周辺は絶えずけたたましい工事の音が鳴り響いている。
 「いつまで続くんだ?」、「本当に終わるのか?」。
 令和8年に完成の日の目を見ると言われているものの、魔宮のような駅外観、そして周辺の光景を目にすると、そういった声が聞こえてくるのも当然かもしれない。再開発が終息したとしても、渋谷という街が変わり続ける可能性だってある。実際、渋谷は時代々々によって、メタモルフォーゼし続ける特異な街という背景を持っている。

 渋谷は、なぜ変容し続けるのか―。
 今回、杉山里枝・経済学部教授が、“戦前の渋谷の発展”、“戦後の渋谷の発展”という視点から、2回にわたって渋谷の変移を解説する。

    変わり続ける渋谷の街を、誰も止めることはできない。

 

 五島慶太の手によって商業地として発展した渋谷駅周辺だったが、第二次世界大戦が勃発すると、度重なる空襲により、約8割が消失。焼け野原となった渋谷駅周辺には、バラックの住居が建てられるなど、渋谷の開発は振り出しに戻ってしまう。

 前回、Part1で戦前の渋谷周辺の発展について解説してくれた杉山先生は、「戦後の復興は、昭和39(1964)年に開催された東京オリンピックがエンジンとなることで加速度的に進められました。当然、渋谷もその恩恵を受けることになります」と語る。

 

 

 「以下の表は、国土交通省が発表している建築統計年報です。東京オリンピックが開催される昭和39年までに、急速にビル建設の実績が増加していることが分かります。とりわけ開催年である昭和39年は、異常とも言えるほどの数字。大阪、名古屋と比べるとその数は歴然ですから、いかに東京周辺で工事が行われていたかを物語っています。中でも渋谷区は、東京オリンピックの主会場として明治神宮外苑を中心とする明治公園が選ばれたため、周辺で大規模な開発事業が進行することになります」(杉山先生、以下同)

 

 

 五輪に向けた渋谷区の発展は、目覚ましいものがあった。一万人近い選手団・役員を収容する選手村として、最有力候補だった埼玉県朝霞市ではなく、紆余曲折の結果、米軍の家族居住地区「ワシントンハイツ」(現・代々木公園)を全面返還し、その跡地に作ることが決定したのだ。

 また、第二会場として駒沢公園が選ばれたことを受け、周辺に位置する代々木公園、神宮外苑、駒沢公園をつなぐ幹線道路や首都高の整備が急ピッチに進む。現在、渋谷の上を走る首都高速3号渋谷線が完成したのは、昭和39(1964)年10月1日。オリンピック開会式が行われた10月10日(後の体育の日)の直前だったというから驚きである。

 


(CAP)昭和39(1964)年年の東京オリンピックでは選手村だった代々木公園

 「結果的に、渋谷を中心にオリンピックが行われる様相を呈してきたため、内幸町の放送会館にあったNHKも、現在の渋谷に移転(オリンピック中継のため国際放送センターとして使われた建物を東館として整備し、翌40年から運用を開始)することになります。不思議なことに渋谷という街は、戦前は田園都市構想に巻き込まれる形で、戦後はオリンピック事業に巻き込まれる形で、結果的に急成長を遂げます。繁華街や街構想は、計画段階を経て作られていくものですが、渋谷の街は巨大な外的要因による、言わば強制力が働くことで巨大化していく。こういった街は、極めて珍しいと言えるのではないでしょうか」

 


(CAP)各沿線の年度別一日平均乗車人数。高度経済成長期に入り、東急東横線、京王線といった郊外を走る沿線の乗客数が増加している。それだけ渋谷周辺に人口が増え始めていることがわかる。(出典:東京都統計年鑑)

 

 では、巻き込まれていく中で、1950年代~60年代の渋谷の街は、どのような雰囲気を持っていたのだろうか? 今ではあまり想像できないが、「どちらかといえば大人がたしなむ街だった」というから意外だ。杉山先生が続ける。

 「1950年代中期、東急は屋上にプラネタリウムを設置した(現在のヒカリエが位置する)東急文化会館に、渋谷パンテオンをはじめとした映画館を併設するなど文教エリアの側面を持たせようとしてました。1960年代には、「渋谷公会堂」がオープンするなど、文化の薫り高い街づくりなどを目的としていたことがうかがえます」

 東急文化会館は、渋谷パンテオン、東急名画座(渋谷東急2)、東急レックス(渋谷東急3)があり、今でいうシネコンのような雰囲気を漂わせていた。また、百軒店にはジャズ喫茶が軒を連ねるなど、当時の渋谷は、若者から家族連れまでが楽しめる雰囲気があったという。オリンピック開催をテコに、多様な層が詰めかけることが予想される渋谷を活かすべく、東急グループは、とりわけ大人がくつろげる街づくりを目指していたという。

 

 
(CAP) 渋谷駅前(都電)(東京都「東京アルバム」より、撮影日1964年12月2日)

 

 では、どうして若者の街になってしまったのか? 「70年代前半に起きた第二次ベビーブームがターニングポイントではないか」と、杉山先生は推測する。

 「71年から74年に生まれた団塊ジュニアと呼ばれる人口のボリュームゾーンは、そのまま大人になる過程において、日本国内のマーケットのメインターゲットとなります。彼ら彼女らが中高生になったときに、渋谷はチーマーやコギャルをはじめとした若者文化最盛期を迎えます。当然、渋谷の外からも同世代の若者が集まるようになる」

 輪をかけて、80年代は若者が新宿から渋谷に流れていた時代。高度経済成長期の3C(カラーテレビ・クーラー・自動車)に代表されるような、同じものを購入する大量消費の時代が終わり、個人が自分自身の趣味嗜好でモノを選ぶ本格的な消費の時代へと様変わりしていく時期でもある。そこに、団塊ジュニアが巨大なボリュームゾーンとして登場する。渋谷公園通りに、外様である西武百貨店を中核とするセゾングループが進出するのも、必然の流れだった。

 

 

 「当然、渋谷を本丸とする東急グループは対抗します。109や東急ハンズを展開することで釘をさすわけですが、西武も反撃する。結果として、東急と西武の応酬が、さらに若者を呼び込むことにつながった」

 五島慶太のバトンを引き継いだ長男・五島昇氏は、若者によって雑然と化す渋谷の状況を苦々しく語っている。このことからも、意図しない形で渋谷が変化していったことは明らかだろう。

 巨大化、いや、膨張化する渋谷への人の集中は、地価を見ても一目瞭然だ。下図は、東京都が公表している東京都基準地価格だが、その高騰ぶりに目を疑う。

 

 (地価平均は、平方メートル単位(m2)の数字)

 

 「住宅地地価は、昭和50(1975)年時点で約19万/m2。ところが、バブルを迎えつつある昭和61(1986)年になると、約101万/m2に。バブル最盛期である平成2(1990)年には、約310万/m2と恐ろしい数字に膨れ上がっています。千代田区、港区、中央区と同様に、飛躍的な上昇率を見せています。同じく住宅地として人気のある目黒区などと比べると、渋谷の上昇率は異様とも言えます」

 バブル期、渋谷の坪単価は一坪2000万~3000万円とも言われている。百軒店などに住んでいた住人は土地を手放し、一気に開発が進む。趣きのある昭和レトロな建物はことごとくなくなり、あたりにはチェーン店やビルが立ち並ぶようになった。杉山先生は、「渋谷そのものが、まるで一つの生き物のような存在に思えてきます」と沈思する。

 「ここでも街の理念が、人々の思惑を超えて、時代の波に飲み込まれていく。意図するものとは違う形で、時代のうねりに合わせるように、渋谷という街そのものが生命体のように変化していきます。それでいて、街として成長し続けているのだから目を見張ります。人の手を借りず、まるで自分で成長しているかのよう。渋谷は、本当に不思議な街です」

 バブル崩壊後、地価平均は一様に沈静化するが、一時の熱狂によって街が様変わりしたことは否めない。比較的煽りを受けなかったことで、昭和の雰囲気が残る神山町、富ヶ谷エリアが、現在“奥渋谷”と呼ばれ、人気のスポットになっているのは、皮肉的ですらある。百軒店を筆頭に、渋谷には時代を感じさせる残り香がたくさんあったが、バブルの狂熱によって、そのほとんどは霧散してしまったのだから。

 若者の街(になってしまった)・渋谷は、 現在、大人の街として生まれ変わるべく再開発が進められている。多数のIT企業が入居するヒカリエの誕生は、まさに嚆矢と言えるだろう。

 「もともと大人が寛げる街を標榜していたのですから、長い年月を経て、あるべき姿に立ち戻っている最中とも受け取ることができます。くしくも、今、アラフィフを迎えている方々は、90年代前半に20歳前後だった若者たち。渋谷と第二次ベビーブーム世代は、因縁めいたものがあるのかもしれませんね(笑)」

 

 

 不況に突入して以降も、渋谷がそのブランドを保ち続けることができたのは、結果的に当時の若者たちが渋谷に集い続けたからだった。しかし今、渋谷の街は若者の街ではなく、インバウンドを含む、多様な人々を迎え入れる街として、新しいフェーズを迎えようとしている。そう、渋谷は若者の街としての役割を、終えようとしているのだ。

 「渋谷区東にある國學院大學に通う学生たちに、渋谷の印象を尋ねると、“便利”という声が圧倒的に多い。郊外からのアクセスも良く、バイトをするにも困らない。友人とご飯を食べる場所もたくさんある。学生たちの目からは、渋谷は機能性に優れた街であって、流行を発信する街として映っていないんですね。かつてのように、“セゾン文化”“コギャル”“ガングロメイク”などの渋谷発の流行語も、久しく登場していません。再び、渋谷の表情が変わろうとしていることは間違いないでしょう」

 では、どう変わるのだろうか? 杉山先生は「まったく読めない」と、笑う。

 「繰り返しになりますが、渋谷の発展の歴史を掘り下げていくと、一筋縄ではいかないことが分かります。理想と現実のせめぎ合いです。当初こそ、理念に基づいて走り始めますが、時代のうねりによって逸脱していく。ところが、結果的に成長する機会につながる。それだけ渋谷という街に、弾力性と多様性があるということなのでしょう。再開発は令和8(2027)年に完了しますが、そのとき渋谷が果たして意図する街になっているのか……それを読むことができないところが、他のターミナル駅には真似できない渋谷だけの魅力と言えるのではないでしょうか。その変化を見届け、考えていくことも、渋谷とともにある國學院大學の役割だと思いますね」

 

 

 

 

 

杉山 里枝

研究分野

日本経済史・経営史

論文

「戦前期日本の毛織物工業における産地織物業の展開ー尾西機業地を事例としてー」(2018/03/01)

「歴史に学ぶ相談役・顧問の活用法:渋沢栄一はいかに関与したか」([特集]存続か廃止か、それが問題?相談役・顧問を見直す6つの着眼)(2018/02/01)

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