渋沢栄一の理想と、五島慶太の現実が乗り入れる渋谷駅
戦前の田園都市構想が、渋谷の発展のきっかけとなった
“100年に一度”と言われるほどの再開発を進めている渋谷。
平成25年春、頭端式ホーム4面4線の東急東横線渋谷駅のホームが廃止され、渋谷ヒカリエ地下5階に移って以降、渋谷の駅周辺は絶えずけたたましい工事の音が鳴り響いている。
「いつまで続くんだ?」、「本当に終わるのか?」。
令和8年に完成の日の目を見ると言われているものの、魔宮のような駅外観、そして周辺の光景を目にすると、そういった声が聞こえてくるのも当然かもしれない。再開発が終息したとしても、渋谷という街が変わり続ける可能性だってある。実際、渋谷は時代々々によって、メタモルフォーゼし続ける特異な街という背景を持っている。
渋谷は、なぜ変容し続けるのか―。
今回、杉山里枝・経済学部教授が、“戦前の渋谷の発展”、“戦後の渋谷の発展”という視点から、2回にわたって渋谷の変移を解説する。
変わり続ける渋谷の街を、誰も止めることはできない。
「日露戦争(明治37(1904)年~)、第一次世界大戦(大正3(1914)年~)を契機に商工業が急激に発展し、日本国内の経済状況は極めて活況でした。必然的に人口が都市部に集まるため、労働者たちの住宅難や都市の非衛生は死活問題と化し、明治時代後期になると周辺町村の整備が火急の要件となっていました」
そう説明するのは、日本経済史・経営史を専門とする杉山里枝・経済学部教授。
そもそも渋谷は、江戸時代の御府内(町奉行の支配に属した江戸の市域)の境界に位置する場所。都市部と郊外農村の交易路として栄え始め、明治時代になると現在の神宮、青山一帯にあった代官屋敷が官園として生まれ変わり、その後、広大な同敷地は軍事施設として再生される背景を持つ。商工業や重工業が盛んになるにつれて、必然的に“際(きわ)”に位置する渋谷の街にも、人口が流入するようになっていく。
「渋谷の開発は、外的な要因によって動き始めたところが大きいのですが、すぐに開発が進んだわけではありません。本格的な渋谷の開発は、もう少し時代を下る必要があります」(杉山先生、以下同)
少し間をおいて、杉山先生は「その上で」と続ける。
「渋谷の発展を考えたとき、この時代に晩年を迎え、心血を注いだ渋沢栄一の存在がなければ、渋谷の街は今のように栄えていたかはわかりません」
(国立国会図書館デジタルライブラリー「近代日本人の肖像」(出典:『近世名士写真 其2』より)
渋沢栄一。第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京証券取引所など、多種多様な企業の設立・経営に関わったことから「日本資本主義の父」と言われる大実業家だ。
「人口が都市部に集中し、郊外の整備化が叫ばれていた際、東京府下荏原郡の地主有志数名が渋沢のもとを訪ね、郊外の開発計画を依頼します。すでに渋沢は、第一国立銀行の頭取を引退するなど、70歳を過ぎて多くの会社の役職を辞し、実業界から事実上身を引いていたのですが、度重なる欧米視察を経て、理想的な市外である田園都市の必要性を痛感していました。日本が本物の近代国家となるためには、世界の名だたる都市にに比肩する街づくりをしなければならない――そういった憂慮があったからこそ、人生の晩年に田園都市開発という大プロジェクトに取り組んだのではないでしょうか」
大正7(1918)年、渋沢が主唱し、「理想的な住宅地を開発する目的」を掲げた田園都市株式会社が誕生する。現在、再開発を手掛ける東急グループの中核会社「東急電鉄」は、田園都市株式会社から大正11(1922)年に、鉄道事業が分離独立して設立された目黒蒲田電鉄に端を発する。東急は、渋沢がいなければ生まれていないのだ。
「渋沢の田園都市構想は、主に多摩川台地区(田園調布)、洗足、大岡山を中心に進められます。渋谷駅は、明治39(1906)年に国有化され国有鉄道の駅となるのですが、この段階では一郊外の駅でしかなく、開発らしい開発はされていません。渋沢は、実業家として心が躍る部分もあったでしょうが、純粋に都市問題を解決したいという社会事業の精神に則って、田園都市計画を推進していたと考えられます。そのため、田園都市計画を実現できる場所の開発に取り組んだのです」
「田園都市建設につき大正四年三月土地有志が飛鳥山澁澤子爵邸を訪問せるときの記念撮影」
(国立国会図書館デジタルライブラリー内、『東京横浜電鉄沿革史』(昭和18(1933)年)3月)より掲載。中央で椅子に腰かけているのが渋沢栄一)
興味深いことに、渋沢は「法律の制定」にも力を入れていたという。例えば、老衰や貧困、病気などで生活が苦しい人を救護する「救護法」を制定するため、最晩年の渋沢は、その必要性を政府に陳情し続けたというのだ。「渋沢栄一は70歳を過ぎた後も、陳情をきくことをやめようとはしなかった。資本主義の父であると同時に、晩年は社会事業の父でもあった」と、杉山先生は語る。
1898年、イギリスのエベネザー・ハワードによって提唱された都市計画「田園都市」は、緑に囲まれた健康的な自給自足の小都市であることが前提とされた。ところが、近代化著しい東京の田園都市構想は、東京市という大工場へ通勤する知的階級の住宅地を眼目としていたため、ハワードが提唱した田園都市とは差異が生まれる。独自の田園都市を形成し始め、“大工場へ通勤する”という言葉が示すように、電鉄の重要性が問われるようになってきたのである。
「目黒蒲田電鉄が設立される以前、すでに関西では箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)で田園都市事業に成功していた小林一三がいました。田園都市株式会社は、彼に代表取締役社長に就任してほしいと依頼したのですが、「関西だけで手一杯」という判断から固辞します。ただ、意見を授けることはしていたようで、自分の意見を実行し得る人物として、元鉄道院監督局総務課長で、当時、武蔵電気鉄道の常務だった五島慶太を推薦します」
後に、初代東京急行電鉄株式会社社長に就任する五島慶太の登場が、渋谷の街を劇的に変貌させるトリガーとなる。
「君はいま郷さんと武蔵電鉄をやろうとしているが、これはなかなか小さな金ではできないぞ。それよりも荏原電鉄をさきに建設し、田園都市計画を実施して四十五万坪の土地を売ってしまえばみんな金になるのだから、まずこれをさきにやれ。そして成功したらその金で武蔵電鉄をやればよいではないか」
昭和31(1956)年、日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」内で、小林からそう告げられたと、五島は振り返っている。そして、先述した目黒蒲田電鉄を設立するに至る。
「小林の薫陶を受けている五島は、大阪の梅田ようなターミナルを作ろうと考えたのでしょう。そもそも東京急行という社名も、小林の阪神急行電鉄がモデルになっていることは一目瞭然です(笑)。徐々に神奈川方面へと延伸し、1932年には桜木町までの東横線全線が開業しました。そして、1934年、関東初のターミナル・デパートである東横百貨店(現・東急百貨店)が開業し、渋谷は一大ターミナルとして花開くのです」
「東横百貨店全景」(国立国会図書館デジタルコレクション内、百貨店日日新聞社編『東急百貨店』(1939年11月)より掲載)
郊外居住者向けに、主に日常品や生活用品を販売したことで、東急百貨店は盛況を迎える。当然、渋谷周辺の商店街の形成に強い影響を与えるようになり、渋谷の人の流れは激しく変わった。五島の勢いは衰えず、東京工業大学、慶応義塾大学を沿線に誘致するなど、学園都市としての側面も強めていき、加速度的に東横線沿線に人が集うようになっていった。「乗客は電車が創造する」とは小林一三の言葉だが、五島もまたその手法に倣ったのだ。
田園都市構想の主唱者である渋沢栄一は、昭和6(1931)年、91歳で大往生を遂げた。その3年前、田園都市株式会社は、多摩川台地区などの分譲を完了したことで、名目上は「目的を達成した」という形で目黒蒲田電鉄に合併され、その名が消える。そして、田園都市構想の表舞台から、渋沢も姿を消す――。
東横線の発展は、渋沢が望んでいた田園都市の風景だったのだろうか?
「田園都市にしても、田園調布以外はなかなかそう呼ぶことに抵抗を覚えるのですが」と杉山先生に尋ねると、「難しいところですね」と微苦笑交じりで答えてくれた。
「その後、五島はやりすぎとも言える鉄道事業を展開します。マネーゲームと言われても反論できない規模の買収を繰り返す。そこに渋沢が掲げた社会事業の精神があったかと言われれば疑問符が付きます。その一方、巨大なインフラを整備し、人々の生活の作り上げたことも事実です。渋沢同様、彼がいなければ、今の渋谷はなかったと言えるでしょう」
新宿や池袋と違い、渋谷は一人の人物によって変革した街だ。その男のDNAが引き継がれたグループによって、今も再開発が進められていると考えると、“100年に一度の再開発”ではなく、“100年続いている大事業”と解釈することもできなくはない。
「あくまで個人としての意見ですが、戦後、本格的に田園都市線が開通していく中で、理想的な市外を形成するという渋沢の夢は、田園都市線にこそ引き継がれているように感じるんですよね」
杉山先生は、「あの時代を生きた五島の現実が東急東横線であり、あの時代の渋沢の理想が東急田園都市線かもしれない」と笑う。
「渋沢の理想と五島の現実がなければ、今の渋谷駅の隆盛はない。そして、世界大戦による商工業の特需、人口増加とそれに伴う郊外の整備化、鉄道の重要性など、タイミングが重なったことも大きい。これが偶然なのか必然なのか、そればかりは経済的観点から計ることはできませんが、こういった条件が一つの時代に凝縮されたからこそ、渋谷はそのポテンシャルを最大限に発揮しながら開発されていったと言えます。ところが、戦後の渋谷を考察すると、渋谷そのものがまるで生き物のように意思を持ち、意図するところではないところで変貌を遂げていくような錯覚を覚えます(笑)。Part2では、その点を踏まえて、昭和から平成の渋谷を見ていきましょう」