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今、民主主義を見つめ直す
平地秀哉教授が考える「熟議民主制」とは?

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法学部 教授 平地 秀哉

2019年6月27日更新

 社会の行く末を決めるには、みんなできちんと議論したほうがいい――ということは、私たちは感覚的に知っている。しかし、SNS上でのやりとりをみても、今がなんて議論や対話が成立しにくい世の中なのか、ということも、日々体感しているはずだ。
 世界規模で議論が進む「熟議民主制」について、憲法学を基礎としながら思索を広げているのが、平地秀哉・法学部教授だ。「熟議民主制」を成立させるには、社会保障から、インターネットやメディアの情報設計に至るまで、考えるべきトピックは多い。世界をベターなものにするための議論は、どうしたら形づくることができるのだろうか。

 

 社会の行く末を左右するような重要な決断は、いきなりイエスかノーかを多数決で決めたり、誰かが鶴の一声で決めたりしたほうがいいのか。それとも、みんなでいろいろ話し合って決めたほうがいいのか。どちらが望ましいでしょうか。
 きっと多くの人が、「いろいろとみんなの意見を出し合って決めていったほうがいい」と思うでしょう。小学校の学級会とほとんど同じようなもので、ガキ大将がこうしようというよりは、ちゃんと議論したほうがいい。
 実は「熟議民主制」(deliberative democracy)の出発点は、これくらい素朴なものなんです。

 「熟議民主制」が、どのような過程で生まれてきた考え方なのか、順を追って振り返ってみましょう。
もともと憲法学においては、裁判所の違憲審査権をめぐって、ずっと議論がなされてきました。日本の最高裁判所の判事は15名ですが、アメリカの連邦最高裁判所はさらに少なくて9名。過半数はたったの5名で、それによって選挙で民主的に選ばれた連邦議会がつくった法律などもひっくり返ってしまう。かつて“Nine Old Men”と揶揄されたことがあるように、それでいいのか、民主主義に反するのではないか、という議論はずっとアメリカではあったのです。
 一方で、民主主義そのものに対する議論は、長い間放っておかれていました。それが1980年代後半から90年代に入るころ、裁判所を批判しているだけではだめだ、民主主義もきちんと考え直さねば、ということで出てきた議論のひとつが「熟議民主制」でした。
 つまり、民主主義の側も、単に多数決でいいのか、という話ですね。法案の審議もそこそこに多数決をとる、というのは、今の私たちの社会でもよく見かける光景ですが、そこに正当性はあるのか、と問うのが「熟議民主制」です。私も大学院時代、こうした議論を一生懸命学んでいました。

 ただ、公共にかかわる話し合いに参加したくても、自分が食べるので精いっぱい、という人もいます。だったら、熟議の前提として、人々にはそれなりの暮らしを保障しなければいけない。憲法でいうところの生存権ですね。
 社会保障がしっかりとなされていなければ、本当の熟議はできない。人種や出身をめぐる差別も、当然解消されなくてはいけません。不平等によって声を上げられない人がいれば、それは理想の熟議ではないのですから。
 そもそも学際的で、他の分野の知見も取り込んでいく向きが強い憲法学を足場にしながら、私はこうした「熟議民主制」の議論を追いかけてきました。海外の文献もひっきりなしに刊行されるくらい、現在進行形で研究が進んでいるものなのです。私自身は基本の理念について研究していますが、アメリカでは模擬熟議というべき社会実験も行われるようになっています。

 もちろん、課題はあります。
 インターネットの登場は、議論のあり方そのものを大きく変えてきました。それまではメディアが提供するものを消費していた我々も、ひとりひとりが発言できる世の中になった。国境を越えて、自分の声を発信できるようになったということは、「熟議民主制」にとってもいいことだったはずです。

 しかし、自分の見たい情報だけを見るようになっていくという「フィルターバブル」の問題が指摘されているように、熟議の前提自体がゆがめられていってしまう、という側面もあるわけです。
 これから私が述べることは、きっと少数派に属する意見だと思います。私は、インターネットの情報空間に、ある程度の国家による介入・コントロールはあってもよいのではないか、と考えています。

 憲法学では国家による検閲は問題だとされますし、そもそも熟議を十分に行っていない国家権力が介入してくることをどうやって正当化するのか、という問いも残る。それでも私は、熟議のためのコントロールはあっていいと思うのです。たとえていえば、道路の信号や、交通ルールのようなもの。みんなが好き勝手運転していては危ないし、改造車なんてもってのほか。そうした情報空間の弊害に対して一定の介入をすることは、実は「熟議民主制」を基礎づけるのではないか、と考えています。
 同様に、インターネットに対して劣勢とされる旧来のマスメディアにも、期待をしたいと思っているのです。種々の議論に目を配り、反対側の意見にも――インターネット的な比喩を用いれば――“リンク”を張ることは、テレビ・新聞・雑誌といったメディアに残された役割だと思うのです。
 最近のテレビニュースでは、画面の端に、SNSで発せられた視聴者の意見を流しているものがあります。しかしただ、画面に流すのであれば、私たちはわざわざテレビを見る必要はないでしょう。むしろメディアの内輪で「こんな意見もあるのだ」としっかりと消化した上で世間に報道していくべきものではないでしょうか。そうした多様性を鑑みながら、発する情報を構成していくのが、メディア本来の役割であると感じます。

 

 みんなで議論するための「熟議民主制」のためには、社会そのものを根本的に設計していく必要がある――自分でも、決して矛盾がない意見だとは思いません。しかし、そもそも「熟議民主制」とは、「よりよい議論ができればいい」というもの。理想に少しでも近づくことが大事で、何か決まった制度がある、という話ではないのです。完璧な熟議は、永遠にできないかもしれない。しかし、それに近づく努力をすることこそが、重要なのだと感じています。

 

 

 

 

 

 

研究分野

憲法

論文

「放送・インターネットにおける名誉毀損」(2018/04/25)

「『公共空間』と憲法理論」(2016/11/01)

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