第一篇 皇典講究所の創立期

2020年3月18日更新

第一章 緒論
明治維新の皇謨
明治維新の変革は、我が国未曽有の大業であり、歴史に輝く不朽の成迹であった。平安朝以来の摂関専政の制を廃止し、鎌倉朝以来の武家封建の制を停め、堂上士民の別なく、一君万民の建国の体制に復した。政治は万機を公論に決して民心の暢達を計り、文化は旧来の陋習を破り、世界の知識を取捨し、道義は天地の公道に基づき、万国交際の情誼を豊かにし、以て大いに皇基を振起し、終に立憲政体を確立して近代国家を形成したのである。斯かる成迹は、我が日本民族が肇国の初より冥々の間に培って来た民族精神の発露である。而して更始一新の中にも民族の本命を失わず、生成発展の間にも温故知新の理により、採長補短の態度を堅持した。斯くて、その精神は、我が民族の信念を貫く神道となり、国家を形成してはその国体となり、学問の体を成しては国学となったのである。
皇典講究所の精神的淵源
抑々我が國學院大學の創始は遠く皇典講究所の創立に沿革する。而して、皇典講究所の創立は、明治維新の歴史に由来するのである。明治天皇が維新の皇謨を樹立せられるや、諸事を神武天皇の創業に基づき、諸般の改革を断行し、その事業は内外に及んで急速に発展し、忽ちその面目を一新した。併し、欧米先進の文物や思想の急激な摂取のために、或は内に新旧互に相容れず、外には外交上の困難に逢着した。而も数百年に亘る封建の陋習は俄に払拭し難く、人智の開明には、なお若干の時日を要した。従って、多くの国民の間には或は維新の真意を理解せず、徒に旧慣に拘泥して反抗する不祥事をも生じた。或は徒に新奇に走って根源を忘れようとした。明治政府は、早くも新政の趣旨を広く国民に理解させ、教化誘導して文明開化の域に至らしめ、国本を鞏固にして、将に開かんとする憲政の済美を図り、以て欧米列国に並立せんと企てた。我が皇典講究所の創設はその一翼を担うものであった。

國學院大學の精神
明治二十三年皇典講究所に依って創建された我が國學院大學の拠って立つ所以も、また一つにこの精神に依るものであり、その学問に発するのである。即ち、我が大学の建学の精神は遠く肇国の理想に基づき、近くは明治維新の成迹により、第一に学問の本源を立て、その故に国体を講明して立国の基礎を鞏固にし、徳性を涵養して、人生の本分を尽くす事を本義としたのである。而もこの事は百世に変らざる典則として、我が大学が天下に声明する所で、その大概は後述の如くである。

明治政府の教化態勢
右の如き情勢の下に、政府は明治二年三月、太政官内に教導局を設置し、調査せしめ、同年九月三十日に至り、大教宣布の機関として宣教使を創始した。
 斯くて、翌三年正月三日、「神祗鎮祭の詔」を以て、天神地祗・八神並びに歴代の皇霊を神祗官に鎮祭して孝敬を申べ、且つ「大教宣布の詔」を発して、祭政一致の本義を昭示し、治教を明らかにし、百度維新に当って、惟神の大道の宣揚を宣教使に命じて天下に布教せしめた。翌四年八月八日政府は神祗官を神祗省に改め、翌五年三月十四日同省の規模を拡張して、新たに教部省を置き、専ら宗教事務を管掌せしめて政教一致の体制を整えた。即ち、教導職を設けて神官神職をこれに兼補したのを始め、僧侶・官吏、講談師までこれに補した。こヽに於て、政府は三条教則を制して教導職に授け布教活動の準拠を示した。所謂、敬神愛国の旨を体し、天理人道を明らかにし、皇上を奉戴して朝旨を遵守せしめたのである。次いで十七兼題・二十八兼題を定めて、教導職の研学と説教との資とし、大いに布教の成果を挙げる事に努めたのである。

大教院の活動
斯くて、教導職は、その道場として東京に大教院を設立し、神殿には造化三神及び天照大神を鎮祭して布教活動の主体と仰ぎ、祭事に奉仕し、説教に練磨し、自ら研修に専念した。而して、この体制を全国に及ぼし、各府県に中教院を設け、各町村の神社寺院を小教院として氏子・檀家の教導に当らせた。
 時に政府は文部省を設置し、学制を発布して近代的な教育制度を確立し、家に不学の者なく、村に不教の戸なからしめ、教導職の活動と共に政府の文教政策として国民の開明に大いに貢献したのである。
 然るに教導職には、神官・僧侶のみではなく、官吏その他をも補命したので、当初から思想も、知識も、その立場を異にする者があり、その間の融和協調は困難であった。説教などに於てもしば〱衝突してその発展を阻害した事も尠くなかった。而も政府の開明主義と文教政策は、国民を啓蒙し、信教自由の論も起こり、大教院の布教事業に動揺を与えるに至った。真宗の僧島地黙雷は、海外の宗教事情を視察し帰朝するや、信教自由の理を説き、大教院の解散論を唱えた。これより大教院分離の論が沛然として起こり、政府は遂にこれを制する事が出来なかった。これに依り八年四月三十日、神仏合同の布教体制を解き、各宗派に於て自由に布教する事とし、政府の布教活動は一つの転機を迎えた。越えて同十年一月十一日には教部省もまた廃止され、各宗派は各自の立場に依って宗教活動を行う事になったのである。

神道事務局の創設
右のような情勢を察知した神道側は、大教院の将来を考慮し、同八年三月二十七日大教正三條西季知・権大教正稲葉正邦・同田中頼庸・同鴻雪爪・同平山省斎は連署して、大教院に代る機関として神道事務局を東京府下有楽町二番地に設置して、教義の統一を図る事を申請、翌日教部省の認可を得た。
 翌四月八日、神道事務局創建大意及び同章程大要を定め、その認可を得た。その主意は、皇太神宮を神道の根本となし、全国の諸社をこれに連絡して在職者を一源に帰し、大道の光輝を普く天下に発揚するというにあった。管掌する所は教義の講明、教典の編纂を始め、生徒寮を設けて有志の徒を教育し、神道の教会・講社を統制し、地方にも巡教して創建の趣旨を徹底せしめる事とし、下部の機関として各府県に神道事務局及び支局を設けた。斯くて、神道は新組織に依って出発し、仏教の諸派と相並んで布教活動に精励する事になり、その成果が期待された。翌九年一月八日神道はその取締上から三部に分かって教導職をして任意の部に所属せしめ、十月二十三日には第四部を設けた。これより神道にも分派の傾向を生じ、同月二十三日黒住・修成の二講社が別派独立するに至ったが、やがて神道史上にいう祭神論が起こり、神道諸教派の別派独立を生じたのである。

祭神論争の帰結
神道事務局の創設と共に神殿を新築するに当り、出雲大社大宮司大教正千家尊福は、この神殿に神道の主体神たる天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・天照大神の四神を奉祀すると共に幽冥界主宰の大国主神をも合祀して、国民に生死二つながらに安心立命を得せしめるべしと主張した。この説には多くの賛成者があったが、俄に行われず、更に同年七月政府が四部の神道区分を廃し、新たに管長の選定を命じたので、益々紛議の傾向を強めた。同十三年四月神殿が落成して遷座祭を行うに当り、千家大教正は三たび大国主神の合祀論を提議したが、神宮大宮司大教正田中頼庸等は顕幽両界の教理は四神の神徳に具足されているので、大国主神の表名合祀はその必要なしと強硬に反対した。斯くて両者には相互に賛成者があり、神道界を二分し甲論乙駁、空前の大紛議となった。これに加え、折から自由民権の論が澎湃として起こり、国会開設運動が全国に及び、政府はその対策に苦慮していたが、漸くこの紛議の解決に乗り出した。
 斯くて山田顯義・副島種臣・大隈重信等を取調委員として、調査研究して神道大会議を開きこれを解決する事になった。翌十四年二月三日より官国幣社宮司及び教導職六級以上の百十八名を東京に会し、元老院議官岩下方平が議長となり、「神道事務局定規」八章二十四条を議定し、祭神及び管長に就いては遂に勅裁を仰ぐ事に決定した。斯くて二月二十三日勅裁に依って神道事務局の祭神は、宮中に鎮斎の天神地祗・賢所及び歴代皇霊の遥拝とし、一品有栖川宮幟仁親王を管長に代え神道教導職総裁とし、岩下議官を副総裁に仰付けられた。斯くて神道界の大紛議は勅裁を以て治定し、これより神道界は統合協調し、教化活動を推進するに至ったのである。以上が皇典講究所の設立に至る道程である。

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