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手厚い“更生”施設、松平定信の「人足寄場」

無宿や罪人の社会復帰を助けた“施設”のさまざまな仕掛け

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法学部教授 高塩博

2018年5月8日更新

斎藤長秋編『江戸名所図会』より佃島其二。石川島人足寄場は、図中の右側中段やや上にある。(写真:国立国会図書館)

斎藤長秋編『江戸名所図会』より佃島其二。石川島人足寄場は、図中の右側中段やや上にある。(写真:国立国会図書館)

 江戸幕府の8代将軍、徳川吉宗が成立させた「公事方御定書」。この法典では、それまで希薄だった犯罪者の「更生」という概念が取り入れられた。1742(寛保2)年のことだ。

前回の記事:「『百敲(ひゃくたたき)』の刑、吉宗は計算ずくだった

 それから50年近く経った1790(寛政2)年、ある政策により「更生」の概念をより進化させた人がいた。老中の松平定信である。

「彼の時代に作られた『人足寄場』(にんそくよせば)は、戸籍から外された“無宿”(むしゅく)を社会復帰させるための施設でした。そしてこれが、日本の刑務所の源流となっていることはあまり知られていません」

 そう説明するのは、法律の歴史を研究する國學院大學法学部の高塩博(たかしお・ひろし)教授。人足寄場とは一体どんな施設であり、どのように更生を図ったのか。そして「今の刑務所の源流」が意味するところとは。高塩氏に話を聞いた。

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「天明の飢饉」で起きた、治安の悪化がきっかけに

――1790年にできた人足寄場は、無宿や罪人を受け入れる施設だったと聞きます。まず“無宿”とは、どのような人のことでしょうか?

高塩 博 氏(以下、敬称略) 無宿とは、戸籍から外された人のことです。江戸時代には無宿が多く存在しました。罪を犯した人はその代表でした。また親に勘当された人、他には故郷を離れた人、今でいえば失踪した状態の人も、親族が戸籍を外すことによって無宿となることが珍しくありませんでした。なぜなら、江戸時代は子どもの借金や犯罪に対して、親族が連帯責任を取らされる場合があったからです。

 このような無宿にとっての大きな問題は、まともな仕事に就けないことです。その結果、盗みなどの犯罪を犯すケースが多々ありました。

松平定信(まつだいら・さだのぶ):1758〜1829年。江戸時代の大名で、徳川吉宗の孫にあたる。白河藩主の養子となり、家督を継いで藩の財政を立て直し、老中となってからは、寛政の改革を行うなど、幕政を担った。

松平定信(まつだいら・さだのぶ):1758〜1829年。江戸時代の大名で、徳川吉宗の孫にあたる。白河藩主の養子となり、家督を継いで藩の財政を立て直し、老中となってからは、寛政の改革を行うなど、幕政を担った。

 

――今ではあまり考えられませんが、江戸時代は戸籍を外された人が多かったんですね。

高塩 さらに無宿の問題を深刻にさせたのが、1782(天明2)年から1787(天明7)年にかけて起こった「天明の大飢饉」です。北関東から東北にかけて大変な食糧危機が起き、1つの藩で何万人という単位の人が亡くなる場合もありました。

 こういった場合、食糧に困った人が物資の集まる地域に移動するのは必然のなりゆきです。江戸は消費都市であり、全国からたくさんの物資が集まりました。そのため、東北方面から江戸に大勢押し寄せてきたのです。この結果、江戸にはたくさんの無宿が徘徊しました。

 無宿は、食べていくために盗みを働いたり、冬の寒さをしのごうと焚き火をして、たくさんの火事を発生させたりしました。江戸の町は、彼らによって、治安の悪化が起きました。

 こうした無宿の対策を取ろうと、1790年に老中・松平定信が作ったのが人足寄場だったのです。

――どんな施設なのでしょうか。

高塩 罪を犯し、刑を終えた無宿に対し、社会復帰に向けた職業訓練をする施設です。入墨(いれずみ)や敲(たたき)の刑を受けた者を受け入れて、彼らに仕事をさせます。その仕事には賃金を支給し、一定の金額に達したら釈放するのです。

 あるいは、人足寄場で仕事をしている間に身元引受人を探し、見つかった時点で引き渡します。こうして、寄場を出るときには再び戸籍につけるのです。

 それまでは、罪を犯した無宿が刑罰を受けても、再犯に至るケースが少なくありませんでした。たとえば、もともと無宿だった人間が軽微な盗みを働いて逮捕されたとします。この場合、入墨や敲の刑に処して釈放します。すなわち、再び無宿として世の中に放り出されるのです。

 しかしながら、無宿には身元保証人もおらず、そのままでは、また無宿として生活しなければなりません。当然、仕事は簡単に見つかりませんから、再び犯罪に走る可能性があるのです。

道徳を教え、節句も祝う。人としての教育にも力を注ぐ

――これまでのように刑を終えたらただ釈放するのではなく、彼らが社会復帰できるようサポートする施設だったんですね。

高塩 はい。人足寄場での強制労働は「刑罰」ではありません。人足寄場は刑罰の執行を終了した無宿を主に収容する施設です。定信は「無罪の無宿」と言っています。ですから、特に収容年数が決まっているわけではなく、賃金の額がある水準まで貯まるか、身元引受人が見つかればいつでも出ていけます。

 こういった更生のための施設ですから、社会復帰に向けた処遇がいくつも施されています。たとえば強制労働に対して支払う賃金は、無宿にすべて渡さず、一定の割合を天引きして毎回貯金します。そうして積み立てたお金を釈放の際にまとめて支給し、今後まっとうな仕事に就くための支度金に充ててもらう仕組みとなっていました。

 これは、「更生」の思いが現れた重要な3つの処遇法です。私はこれらを、労働に対して賃金を支払う(1)「作業有償制」、その賃金を天引きして積み立てる(2)「強制積立の制」、積み立てた貯金を就職のための準備金にする(3)「元手の制」と呼んでいます。更生を見据えていたからこそ採用された処遇法だと言えましょう。

――そういった面でも配慮をしていたんですね。

高塩 社会へ戻すことを考えると、人間性が改まらなければ再び犯罪に走る可能性があります。そこで、人間性を改善させる「教育的処遇」も施しています。

 具体的には、「心学」(しんがく)を学ぶ時間を設けたことです。心学とは、当時、主に庶民に対し、たとえ話を交えながら心の持ちようを分かりやすく説いたものです。寄場では、心学の学者が月に何度か招かれ、無宿に心の持ち方を教え諭したのでした。

 心学が行われたのは、寄場の仕事が休みの日です。寄場では、月に3日の休業日がありました。これも当時の社会としては異例です。江戸時代の丁稚奉公などは、正月とお盆しか休めないほど厳しかったのですが、そのような時代でありながらも寄場では月に何度も休みがあったのです。

高塩氏所有の、人足寄場での心学道話を収載した「心學教諭錄」(しんがくきょうゆろく)。

高塩氏所有の、人足寄場での心学道話を収載した「心學教諭錄」(しんがくきょうゆろく)。

――ひたすら働かせて懲らしめるのが目的ではないということですよね。

高塩 そうですね。さらに、お正月には鮭の塩引きを食べさせたり、お月見なら団子を出したり。節句をきちんと祝うことで、情操を養う計らいもありました。

 また、当時の市民が特に信仰していたのは、“お稲荷さん”とよばれた稲荷神ですが、人足寄場ではお社を作って、お稲荷さんを祀ったのです。そうして、無宿が感じる寂しさや精神的な不安を慰めるよう配慮したのでした。

人足寄場に作られたお社は、今も在り続ける

――お社まで建てたというのは驚きです。

高塩 このお社は、のちに面白いエピソードにつながります。それはまた後で話しましょう。

 このようにして、無罪の無宿を引き受けた人足寄場ですが、30年経った1820(文政3)年には、追放刑の判決を受けた罪人も収容するようになりました。

 追放刑の代表である“江戸払い”や“江戸十里四方追放”は、生涯にわたりその地域への立ち入りを禁止する刑罰です。追放された罪人は無宿となり、生活に困ります。もちろん仕事にも就けません。やはり、犯罪をまた生んでしまう恐れがあります。そこで、彼らを人足寄場に入れました。

 ただし無罪の無宿と違うのは、足掛け5年間という収容期間が定められたことです。それを終えないと身元引受人に渡せませんでした。あくまで追放刑は適用されているので、立入禁止区域の外で身元引受人を見つける必要があったのですが、それでも受け渡しの際には戸籍が再び与えられました。

――ということは、今の懲役に近いイメージですよね。

高塩 そうですね。追放刑の者を収容した時点から、寄場には刑罰的な要素が色濃く出てきました。そして、明治を迎えると無罪の無宿ではなく、はっきりと犯罪者収容の場所になっていきます。

 人足寄場は、当時、隅田川の河口付近にあった石川島(現在の東京都佃2丁目)に作られましたが、明治期から名前を石川島監獄などに変えて、今日の刑務所と同じような刑罰(懲役)を執行する場になっていきます。

 さらに近隣の都市化が進むと、石川島から巣鴨へ移転します。巣鴨監獄、巣鴨刑務所と名を変えました。それから、現在の府中刑務所へと再移転します。

――人足寄場が、今の刑務所につながってくるということですか?

高塩 そうですね。面白いのが、先ほどお話しした“お稲荷さん”です。人足寄場で作られたお社は、施設とともに移転し、今も府中にあるのです。ただし、刑務所は公的機関であり、刑務官は国家公務員なので、特定の宗教に公務で関わってはいけません。そのため、今のお社は刑務所の塀の外にあるのですが。

 とはいえ、このお稲荷さんこそ、人足寄場が現在の刑務所につながっていることを示唆しているのです。

人足寄場創設より35年前、既にこの仕組みを実践していた“藩主”がいた

――定信がつくった人足寄場が、現代に生きているのですね。

高塩 そう言えます。ちなみに、人足寄場を作った人物として、現代では長谷川平蔵*1の名が挙がります。彼が定信に提案して採用されたと言われますが、私の研究では、定信が構想をつくり、その遂行役として手を挙げたのが長谷川平蔵だったと考えています。

 ヒントとなるのが、寄場のできる35年前、1755(宝暦5年)に熊本藩で作られた「徒刑」(とけい)という刑罰制度です。これは、はっきりと社会復帰を目指した刑罰で、犯罪者を施設に入れ、罪の重さに合わせて1年から3年の期間、強制労働をさせました。

 この徒刑において、人足寄場の核となった3つの処遇法がすでに実践されていました。賃金を支払いつつ、同時に積み立てを行い、釈放時に軍資金として渡していたのです。全国で最初に始めたのは、おそらく熊本藩でしょう。

 実は定信は、この徒刑について書物などで知っていました。さらに、熊本藩主の細川重賢(ほそかわ・しげかた)の屋敷に出かけたり、書簡のやり取りをしたりしています。

 加えて、定信は細川重賢が亡くなった後、彼の家臣だった家老の堀勝名(ほり・かつな。通称は堀平太左衛門)と会っています。重賢が熊本藩でどんな政策を取ってきたか、堀に尋ねています。

 堀は外様大名の家臣です。幕府の要職にあった定信がこういった行動に出るのは、本来あり得ないことです。ですが、定信は教えを乞う態度で尋ねたのです。

*1=江戸時代の旗本。小説『鬼平犯科帳』のモデルとして知られる。

――これらの背景から、定信が人足寄場の構想を思いついた、と。

高塩 長谷川平蔵はあくまでも幕臣の一人ですから、全国を見渡すような地位にはいませんでした。徒刑に通じる人足寄場の制度は、熊本藩の政治をよく知っていた定信の構想によるものです。

 同時に見逃せないのは、定信の謙虚な態度です。堀との逸話にもあるように、彼がこれだけ謙虚なのは、人々のために本気で何をなすべきか考えていたからです。その姿勢が、更生のための施設という構想に行き着いたのでしょう。

――本気で人々に寄り添っていたということですよね。そして、定信の祖父である吉宗も似た思想を持っており、偶然にも2人が別の時代で更生を具現化したのではないでしょうか。

高塩 はい。定信は吉宗の没後に生まれています。ですから祖父に直接会うことはなかったのですが、二人は同じ思想を持ち、同じ思いに向かっていたと言えます。実際、それを示すものがあります。福島県白河市の南湖公園です。

 連載の最終回となる次回は、南湖公園をもとに2人がどんな思いを持っていたのか、説明したいと思います。

 

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