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暴れん坊将軍の作った法律はこんなに画期的だった!

徳川吉宗の「公事方御定書」はなんと中国法を参照していた

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法学部 教授 高塩 博

2017年12月4日更新

徳川吉宗の命により著述された明律の逐条和訳書「大明律例譯義」(だいみんりつれいやくぎ)

徳川吉宗の命により著述された明律の逐条和訳書「大明律例譯義」(だいみんりつれいやくぎ)

 私たちの社会には、今や当たり前のように法律が存在している。「してはいけないこと」は一つひとつ明文化され、それに対する刑罰も決められている。しかし、このような法律を一から体系化するのは簡単ではない。漏れがあったり、法律の歪みがあったりしてはならないからだ。

 しかし、時はさかのぼって江戸時代。実はこの時代に、「法典の編纂」という難題に真っ向から挑んだ“将軍”がいる。8代将軍の徳川吉宗である。

「彼が制定した『公事方御定書』(くじかたおさだめがき)は、幕府の基本法として権威ある法典でした。そのようなものを作れたのは、中国の法律を長年勉強し、そこに多くのヒントを得たからといえます」

 こう話すのは、法律の歴史を研究する國學院大學法学部の高塩博(たかしお・ひろし)教授。時の最高権力者であった吉宗は、なぜ高度な法律を作れたのか。高塩氏の話から、その秘密を探りたい。

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「公事方御定書」とは?

──1742(寛保2)年にできた「公事方御定書」は、吉宗みずからが法文作成の初歩を指導し、この法文はこのように修正しなさいなどと具体的な指示までして出来た法典である、と先ほど先生から伺いました。その「公事方御定書」は、法の歴史を研究する立場から見てどのような法典だったのでしょうか。

高塩 博 教授(以下、敬称略) 「公事方御定書」ができる以前は、その時々に応じて「こうしなさい」と命じたり、「こうしてはいけません」と禁止したりする法令が触書(ふれがき)によって出されていました。当然ながら、幕府は今日の刑法や民法というまとまりのある法律を持っていませんでした。

 そうした状況下で、体系的な法律を一から作り出すのは、かなりの難事業であったと思われます。「公事方御定書」はその編纂に着手したのが1737(元文2)年のことで、出来上がるのが1742(寛保2)年ですので、足掛け6年(実質は約4年半)の時間を必要としました。できあがるとすぐに運用が始まりますが、同時に法文の増補と修正がなされ、1752(宝暦4)年まで5回にわたる増補修正が実施されました。

 ここに至り、今日に見る「公事方御定書」ができあがるのです。編纂開始から15年半の年月が経過しています。「公事方御定書」を作り上げることは、幕府にとって、また吉宗にとって、まさに一大事業であったと言えるでしょう。

徳川吉宗(とくがわ・よしむね):1684〜1751年。江戸幕府の第8代将軍。和歌山藩徳川家の第2代藩主光貞の四男。1705〜1716年まで和歌山藩の藩主を務めると、1716〜1745年まで江戸幕府の将軍となる。享保の改革を推し進め、財政を復興。また、新田開発の推進や目安箱の設置といった政策も行った

徳川吉宗(とくがわ・よしむね):1684〜1751年。江戸幕府の第8代将軍。和歌山藩徳川家の第2代藩主光貞の四男。1705〜1716年まで和歌山藩の藩主を務めると、1716〜1745年まで江戸幕府の将軍となる。享保の改革を推し進め、財政を復興。また、新田開発の推進や目安箱の設置といった政策も行った

 さらに重要なのは、「公事方御定書」がそれまでの考え方から大きく転換させた刑罰も定めていることです。江戸時代の前半の日本では、罪を犯したものの多くが「死刑」や「追放刑」に処されました。すなわち、共同体から排除するという性格の刑罰です。

「公事方御定書」は従来どおりの死刑や追放刑を定めていますが、同時に、犯罪者がもう一度社会に戻れるように配慮した刑罰も採用しているのです。すなわち、「更生」という考え方です。いうまでもなく、この刑罰を定めるにあたっては吉宗の意向が働いていました。

子どもの頃から大の法律好きだった吉宗

──それではなぜ吉宗は、そのような画期的な刑罰をもつ法典を作ることができたのでしょうか。

高塩 それは、彼が成人に達する以前の若い頃からの「法律好き」だったからと思われます。吉宗といえば「米将軍」のあだ名が有名です。しかし、実はもうひとつ、「法律将軍」というあだ名があるほどです。

 ご存じのように、吉宗は和歌山藩主の家に生まれ、22歳〜33歳まで藩主を務めますが、その後、江戸幕府の将軍に抜擢されます。彼が無類の法律好きで、中国法に子どもの頃から親しんでいたことが記録に残っています。

 たとえばある書簡には、吉宗が“御弱年”より、中国の明(みん)の刑法である「明律」を好んで、朝から暮れまで読んでいたと書かれています。「御弱年」と書いてあって、はっきりとした年齢は不明なのですが、いまの中学生くらいでしょうかね。その年齢で一日中、法律を読んだというのですから、吉宗はとりわけ個性的な少年だったのでしょうね。

 かの荻生徂徠(おぎゅう・そらい)も、「吉宗の法律好きは、和歌山藩主のときからであり、このことは全国の大名に知られている」と言っているほどです。将軍になってからも、和歌や漢詩はあまり好まず、「明律」を常に好んで読んでいたと、幕府の歴史書に書かれているんですね。

──本当に法律が好きだったんですね。

高塩 吉宗は、実利的で世の中の役に立つ「実学」を好む人でした。法律以外にも、江戸城の中で雨量観測をして、雨の降り方で川の氾濫を予測したり、乳牛を飼って酪農を始めたり。飢饉に備えるために、サツマイモを関東で作れるように研究させたのも吉宗です。「甘藷先生」で有名な青木昆陽(あおき・こんよう)に命じて栽培法を実験させています。

──そういった「実学」として、法律を学んでいたのでしょうか。

高塩 そうだと考えられます。なかでも、徹底して研究したのが、先ほど述べた中国の「明律」です。そして、この明律の研究が、やがて「公事方御定書」の制定につながっていくのです。

 明律研究の発端は、吉宗の父、和歌山藩第2代藩主の徳川光貞にあります。光貞は家臣の学者に命じて「大明律例諺解」(だいみんりつれいげんかい、31巻31冊)を著述させました。これは我が国最初の明律注釈書です。1690(元禄3)年から取りかかって、1694(元禄7)年にできあがりました。1694(元禄7)年は吉宗が幼名の新之助と称していたときで、11歳です。吉宗の法律好きはこの頃から始まったのではないかと、と私は推測しています。

 注目すべきは、吉宗が成人し、和歌山藩主となってからです。父の命によって著述させた「大明律例諺解」をより完成度の高い物にしようと、家臣の学者3人に命じてその注釈を点検させました。その成果は「大明律例諺解訂正」1巻となりました。正誤表のようなものです。1713(正徳3)年の出来事です。「大明律例諺解」が出来てから19年が経過していますから、吉宗は30歳に達していました。

 2年後の1715(正徳5)年には「訂正」1巻をさらに点検して、その内容を「大明律例諺解」の本体に書き入れる作業もしました。これは将軍就任の前の年のことです。

 明律の研究は、彼が将軍となってからも続きます。将軍となって5年ほど経った37歳のときには、明律の各条文を分かりやすい日本語に翻訳させたのです。写真で示した「大明律例譯義」(14巻14冊)がそれです。その著者は高瀬喜朴(たかせ・きぼく、号は学山)という和歌山藩の学者です。彼は「大明律例諺解」の点検作業に従事した人物です。

 吉宗はさらに幕府の学者、荻生観(おぎゅう・たすくる、号は北渓、徂徠の弟)にも明律に関する仕事をさせています。それは明律の原文に読点、返り点、送り仮名を施すこと。つまり、訓点を施すことです。吉宗はその訓点本の明律を京都と江戸で同時発売させました。1723(享保8)年、吉宗40歳のときです。写真で示した「官准刊行明律」(9冊)がそれです。明律の正確な原文を提供するとともに、明律を理解しやすくしたのでした。京都と江戸で同時に発売させたのは、それを全国に広めようと意図したからです。

公事方御定書と明律。2つの法に見られる共通点

──本当に生涯をかけて中国法を研究していたんですね。

高塩 そうですね。ここまで明律に着目していた人は皆無ですし、彼は確実にそれが政治に役立つ「実学」だと捉えていたはずです。そして、その中国法研究があったからこそ、「公事方御定書」を編纂することができたと考えられます。

 ちなみに、現代の刑法は、1882(明治15)年から施行された旧刑法が始まりですが、その前は、1871(明治4)年〜1881(明治14)年まで「新律綱領」(しんりつこうりょう)という刑法が使われました。実は、これも中国法に基づいて作られており、その理解には吉宗が遺した明律研究が役に立っています。「訓点本明律」が明治時代に入ってからも刊行されたのは、その現れです。

──先述した中国法の研究は、吉宗が40歳頃までのもので、「公事方御定書」の成立は1742(寛保2)年、吉宗58歳の時となります。明律の研究は、どのように「公事方御定書」に生きているのでしょうか。

高塩 これまで、吉宗が明律を中心として律令法を研究していた事実は判明していました。しかしながら、それと「公事方御定書」とは何ら関係がないとされてきました。近年、律令法研究と「公事方御定書」とは大いに関連することが分かってきました。

 その象徴が、「公事方御定書」の構成です。この法典は上下巻に分かれており、上巻では「これをしてはいけない」「こうしなさい」といった法令が定められています。対して、下巻ではその罪を犯した際の刑罰を主に定めています。上下巻は、そういった対応関係を持っています。

 この関係は、中国の律令法典の性格です。律令法典では、命令や禁止項目をならべた「令(教令法)」と、その違反を罰する「律(懲罰法)」が、それぞれの対応関係で成り立っています。

 さらに、刑罰の定め方も明らかに中国法の考え方を参考としたものとなっています。窃盗を例に取ってみましょう。「公事方御定書」では、盗んだ財物の金額が増えるに従って刑が重くなっています。また、初犯は「敲」(たたき)の刑、再犯には「入墨」(いれずみ)の刑、そして三犯になると「死刑」という、“窃盗三犯は死罪”の原則を定めています。

 これらも、明律と同じ法構造になっています。ただし、ただ明律をそのまま真似たわけではありません。盗んだ財物と刑の重さの関係や、入墨の施し方などを細かく見ると、吉宗は日本流にアレンジしていったことが分かります。このアレンジのために、中国法との関連を近年まで見抜くことができなかったのです。

 「公事方御定書」の編纂制定は、中国法を深く研究をしていたからこそ達成することのできた大仕事であったと言えるでしょう。

──「公事方御定書」を作った背景がよく分かりました。それだけの研究があったからこそ、「公事方御定書」に更生という視点を取り入れた法典を生み出すことができたのですね。

高塩 はい。吉宗は明律を中心として中国法を熱心に研究した結果、そこに大きなヒントを得、更生を視野に入れた刑罰を考え出したのだと思います。

 何より私たちが知っておくべきは、「吉宗がなぜ“更生”、すなわち犯罪者の社会復帰にこだわったのか」ということです。その理由、そしてその思いを法の上にどう具現化したのか、次回詳しくお話しします。

吉宗の命により刊行された「訓点本明律(官准刊行明律)」。

吉宗の命により刊行された「訓点本明律(官准刊行明律)」。

高塩博(國學院大學法学部教授)

昭和23年(1948)生まれ。國學院大學大学院法学研究科修了。同大學日本文化研究所助教授・教授を経て、同大學法学部教授。日本法制史専攻。法学博士。法制史学会理事、法文化学会理事、公益財団法人 矯正協会理事。近年は江戸時代の刑事法制を中心に研究を進めている。主要著書に『江戸時代の法とその周縁―吉宗と重賢と定信と―』(汲古書院、平成16年)、『近世刑罰制度論考―社会復帰をめざす自由刑―』(成文堂、平成25年)、『江戸幕府法の基礎的研究』論考篇・史料篇(汲古書院、平成29年)、など。

 

 

 

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