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渋沢栄一が明治時代に公益と利益を両立できた理由

「道徳経済合一」達成の裏には、こんな仕掛けがあった

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経済学部 准教授 石井 里枝

2017年12月5日更新

渋沢栄一が設立に寄与した東京瓦斯株式会社。(写真:国立国会図書館)

渋沢栄一が設立に寄与した東京瓦斯株式会社。(写真:国立国会図書館)

 明治から大正にかけて活躍し、「日本資本主義の父」と呼ばれた実業家、渋沢栄一。生涯で約500の企業に関わり、約600の社会事業に携わった彼の考えは、現代になって改めて注目を浴びている。

前回の記事:「私たちはなぜ今こそ渋沢栄一の理念に学ぶべきなのか」

 中でも再評価されているのが、彼が生涯をかけて追い続けた「道徳経済合一」の理念だ。

「渋沢は、私利私欲ではなく公益を追求する『道徳』と、利益を求める『経済』が、事業において両立しなければならないと考えました。そしてそれを、実業家としてのキャリアの中で実践し続けます」

 このように話すのは、國學院大學経済学部の石井里枝(いしい・りえ)准教授。私利に走らず公益を追うのは、まさに現代に求められる考え方だ。とはいえ、道徳と経済の両立は簡単ではないはず。彼はなぜそれを実現できたのか。石井氏に伺った。

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公益の追求と利益を上げることは、どちらも欠けてはならない

――渋沢栄一が提唱した「道徳経済合一」とは、どんな考えなのでしょうか。

石井里枝氏(以下、敬称略) 経済活動において、公益の追求を尊重する「道徳」と、生産殖利である「経済」、すなわち仁義道徳と生産殖利とは元来ともに進むべきもの、ともに重視すべきものであり、どちらかが欠けてはいけないという考え方です。

 簡略にいえば、事業をする上で、常に社会貢献や多くの人の幸せの実現といった公益を追求しながら、同時に利益を上げていくという理念です。

 道徳と経済は、彼の言葉からすれば、あくまで並行すべきもの、イコールで結ばれるべき関係性で、どちらかが先になる、どちらかが優先されるものではないということのようです。

 道徳と経済がそもそも同じ位置にあり、一緒に進むべきものという考えなんですね。どちらが先に行くという話ではありません。

――この「道徳経済合一」は、いつ頃提唱されたものなのでしょうか。

石井 言葉として明確になったのは、1910年頃から。渋沢が古稀を迎えて実業界の第一線から退くことになってからです。とはいえ、その年齢になって考えた理念ではなく、彼が大蔵省を辞して、実業家となった33歳の頃から一貫して実現してきたもので、それを後になって言葉にしたといえます。

――彼が数々の企業に関わる中で、特に「道徳経済合一」が色濃く現れているものがあれば教えてください。

石井 彼にとって最初の起業となった「第一国立銀行(現・みずほ銀行)」は、その好例です。

 渋沢が実業家として活躍した時代は、同時に財閥が飛躍的な成長を遂げた時期でした。そしてこの頃、渋沢も財閥も、銀行の設立に力を入れます。それらは、現代にも多数残っていますよね。

 ただ、同じ銀行でも、渋沢と財閥では主旨が大きく異なりました。財閥系の銀行の多くは、「あくまで財閥の中で、内部への資金調達をするための銀行」という位置付けでしたが、渋沢にとって銀行は「世の中に生まれるさまざまな企業の資金調達をするためのもの」という位置付けでした。

 同じ銀行という役割でも、見据えているものは全く違いました。彼は世の中の資金を循環し、産業を興して国を豊かにするために、大元の金融を作ったのでした。

簡単ではない道徳と経済の両立。なぜ彼はできたのか

――実業家としてのスタート時からこの理念を実践していたのですね。

石井 その他でも、彼が関わった事業を見ると、いかに公益と利益の両方を追求していたか分かります。再び財閥との比較になりますが、財閥の多くは重工業に力を注ぎました。もちろん、この分野での財閥の貢献も日本の経済成長には欠かせなかったのですが、渋沢は財閥が手を伸ばさない分野に多く関わりました。

 その象徴が、インフラ事業です。全国の鉄道には彼が若い頃から携わりましたし、その他に東京瓦斯(ガス)などの設立にも寄与しました。国民の生活を左右する部分に数多く貢献したといえます。それは、国民の生活を豊かにするという、公益の追求を考えていたからです。その上で、これらの事業を利益化していったのでした。

――彼の理念や、それを実現した例はよく分かりました。とはいえ、道徳と経済を両立するのは簡単ではありません。なぜそれができたのでしょうか。

石井 いろいろな理由があると思いますが、どんな事業を立ち上げるか、その出発点における「目の付けどころ」に秘訣があったかと思います。彼が携わった事業の多くは、海外で先んじて始まっていて、現地では普及しているもの、それでいて日本にはまだ無いものが多かったんですね。

 鉄道やインフラはまさにそれですし、彼はキャリア前半期に大阪紡績会社の立ち上げで成功を収めますが、イギリスをはじめ世界の産業革命は紡績分野から始まっており、渋沢はそれを日本に持ち込んだ形でした。また、渋沢は保険業の立ち上げにも尽力しますが、これも海外の先進国には普及していながら、まだ日本になかったものです。

 彼は、日本にはまだ無いけど海外には既にあるもの、そして海外で普及しているものを積極的に取り入れたのではないでしょうか。普及しているということは、人々にとって絶対的に必要なものであり、生活を豊かにします。ということは、ニーズがあるわけで、当然利益にもなり得ます。

――海外の先進国と日本を比較していたからこそ、そういった先見の明があったんですね。

石井 実際、海外の情報は頻繁に取り入れていて、欧米諸国を訪れる中で、情報や最先端のものをキャッチアップしていたようです。また、とにかく人との面談を重視し、短い時間の中でも情報や意見の交換を惜しみませんでした。

 鉄道についても、当時の日本では「危険なもの」という認識も強かったのですが、海外での状況や情報から「安全であり、必要なもの」と確信したのではないでしょうか。実際、彼が関わるインフラ事業などの合理性や可能性を説いていたようですし、実業界引退後には比較的時間をかけて地方都市を視察し、講演なども多く行いました。

 ちなみに、渋沢は農民の出身ですが、一時は一橋家に仕官して、一橋慶喜の幕臣を務めます。そういった中で、彼は武士としての思想、仁義や“人のため”といった考えを強くします。

 一方で、彼は商業の重要性を若いうちに認識し、利益を上げることの大切さを説いていました。士農工商という言葉がありましたが、渋沢は最も身分の高い「士」と、その一方で低く見られていた「商」の2つを、共に大切だと考えていたのです。当時としては非常に先進的です。

―― 一見、真逆にありそうな2つを合わせて考えたのですね。

石井 はい。これらを踏まえて、渋沢の哲学にはよく「士魂商才」という言葉が出てきます。武士の魂と商売の才を共に発揮することの意味が表現されています。彼は、事業を考える際、そのアイデアの発想時から両方を同じ位置に見て計画していたのでしょう。

 そして、このような「道徳経済合一」を合言葉に、日本の近代化を目指した彼の精神は、まさに今の日本でも求められるのではないでしょうか。

資本集めにおいても、渋沢流のこだわりがあった

渋沢 栄一(しぶさわ・えいいち):1840〜1931年。埼玉県の農家に生まれ、若い頃に論語を学ぶ。明治維新の後、大蔵省を辞してからは、日本初の銀行となる第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監役に。その後、大阪紡績会社や東京瓦斯、田園都市(現・東京急行電鉄)、東京証券取引所、各鉄道会社をはじめ、約500もの企業に関わる。また、養育院の院長を務めるなど、社会活動にも力を注いだ。(写真:国立国会図書館)

渋沢 栄一(しぶさわ・えいいち):1840〜1931年。埼玉県の農家に生まれ、若い頃に論語を学ぶ。明治維新の後、大蔵省を辞してからは、日本初の銀行となる第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監役に。その後、大阪紡績会社や東京瓦斯、田園都市(現・東京急行電鉄)、東京証券取引所、各鉄道会社をはじめ、約500もの企業に関わる。また、養育院の院長を務めるなど、社会活動にも力を注いだ。(写真:国立国会図書館)

――「今の日本でも求められる」という言葉の意味を教えてください。

石井 日本は今、もう一度経済を作り直さなければいけない時期に来ています。以前の日本的経営は大企業をベースにした考え方でしたが、バブル経済崩壊後、いわゆる失われた10年、20年を経た現在の日本において、それでは厳しいという考えになってきました。その後、一時はアメリカ的な経営も評価されましたが、それもまた限界を感じるケースが出ています。こういった中で、ゼロから企業の経営を考えなければいけません。

 その時に、「利益に走っても道徳がなければ駄目だ」と考え、一方で「道徳があっても利益が出て継続性がなければいけない」と考えた渋沢の経営方針は、大切になるのではないでしょうか。

 さらに、グローバル化した現代では、先進国が新興国を舞台にビジネスを行うケースもあります。新興国は、いわば渋沢が生きた時代の日本ですよね。

 そのときに、私利に走って搾取をするのではなく、道徳に基づいて公益追求ができるのか。また、道徳ばかりを重視して、そもそもの事業が倒れてしまわないか。道徳と経済の両輪を回し、その国の生活を豊かにする経営者が求められているといえます。

――ちなみに、経営戦略においても、「道徳経済合一」をかなえるために行っていた施策はあるのでしょうか。

石井 はい。一例として挙げられるのが、資本集めの部分です。

 彼は財閥が全盛の中で、株式会社制度に強いこだわりを見せました。会社を立ち上げるにも、身内で資金を固めず、広く社会からさまざまな資本を集めたのです。そこには、会社や事業の利益を自分たちの「私利」にするのではなく、なるべく多くの人に還元したいという狙いがありました。

 たとえば寄付を募るときにも、渋沢は寄付者名簿を作り、最初に自分の名前と寄付金額を明示して回覧し、一人でも多くの人が参加するのを勧めたといわれています。なぜなら、特定の人物から多額の寄付をもらうより、たとえ一人当たりの金額は小さくても、より多くの人が寄付することを重視していたからです。金額の大小よりもむしろ、関わる人の人数に着目していたんですね。

 このような考えを、渋沢は「合本(がっぽん)法」、「合本組織」と表現しました。これは「合本主義」として一般社会で流布されていきますが、それはまさに「公益」を追求する姿勢の表れでもあります。

――より多くの人を巻き込むのも重要だったんですね。

石井 そうですね。実際、彼は500ほどの事業の多くにおいて、実質的な経営を他の人に任せています。彼が経営に深く関わることもありましたが、起業時の資金集めや、部分的なアドバイスに関与したケースは珍しくありませんでした。

 とはいえ、いろんな人に任せるには、大きな人的ネットワークが必要になりますし、お互いの信用がなければ成り立ちません。そもそも、自分ではなく他の人に事業を任せた理由のひとつに、彼のこだわった「公益の追求」があるといえます。

 次回は、いかにして渋沢が人的ネットワークをつくり、信用関係を築いたのかについてお話しします。

 

石井里枝(経済学部准教授)

東京大学経済学部卒業。同大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。三菱経済研究所研究員、愛知大学経営学部准教授を経て現職。著書に『戦前期日本の地方企業‐地域における産業化と近代経営‐』(日本経済評論社)、『日本経済史』(ミネルヴァ書房)などがある。

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