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「百敲(ひゃくたたき)」の刑、吉宗は計算ずくだった

「公事方御定書」は罪人たちの“再犯”をどのように防いだのか

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法学部教授 高塩博

2018年3月12日更新

佐久間長敬著『刑罪詳説』より、小伝馬町牢屋敷門前での敲刑の執行風景。そばには医師も控えていた(図中の“十”)。(写真:国立国会図書館)

佐久間長敬著『刑罪詳説』より、小伝馬町牢屋敷門前での敲刑の執行風景。そばには医師も控えていた(図中の“十”)。(写真:国立国会図書館)

 若い頃から、法律を学んでいた江戸時代の8代将軍・徳川吉宗。彼が成立させた「公事方御定書」は、それまで希薄だった「更生」の概念を取り入れ、犯罪者がもう一度社会に戻れるように配慮した刑罰が採用された。それが「敲(たたき)」の刑罰だという。

前回の記事:「吉宗の法典で大転換、罪人に開かれた『更生』への道

「現代人からみると、“野蛮な刑罰”というイメージを抱くことと思いますが、『敲』こそ更生への思いが強く現れた刑罰です。なぜなら、吉宗は敲という刑罰の中に、罪人が社会復帰できるための“さまざまな工夫”を施しているからです」
 こう話すのは、法律の歴史を研究する法学部の高塩博(たかしお・ひろし)教授。吉宗はどのような工夫を「敲」の刑罰に込めていたのか。同氏の解説を聞いてみよう。

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多くの人の前で執行した「敲」。そこにある2つの狙い

――「公事方御定書」において、「敲」とはどんな刑罰だったのでしょうか。

高塩 博(以下、高塩) 前回も紹介しましたように、「公事方御定書」は「入墨」(いれずみ)とともに、「敲」というムチ打ちの刑を定めています。

「敲」の刑は、軽微な盗みの犯罪に適用します。もっとも軽いときに50敲、やや重いときに100敲、さらに重いときには入墨のうえ50敲、あるいは入れ墨のうえ100敲を適用します。窃盗罪であっても、10両以上に達する金品を盗みますと、「死罪」という名の死刑に処されます。

 盗みは“犯罪の王様”と称されています。他の犯罪に比べて発生件数が圧倒的に多いからです。この傾向は今も昔も代わりありません。また、洋の東西を問いません。このような性質を持つ盗犯に敲を適用したことが、注目されなければなりません。

――敲の刑罰はどのように執行されたのでしょうか。それが更生とどうつながっているのでしょうか。

高塩 敲の様子を記した当時の絵図を見てください。注意深く眺めると、いろいろな発見があります。

佐久間長敬著『刑罪詳説』より、小伝馬町牢屋敷門前での敲刑の執行風景(再掲)。(写真:国立国会図書館)

佐久間長敬著『刑罪詳説』より、小伝馬町牢屋敷門前での敲刑の執行風景(再掲)。(写真:国立国会図書館)

 執行場所は小伝馬町牢屋敷の表門のところです。表門の前は一般の人々の通る往来ですから、この絵図では省略してありますが、見物人でごった返しています。つまり、敲の刑は公開処刑なのです。多くの人に執行の様子を見学させることにより、盗みの罪を犯したら、たとえ少額な物を盗んでもこんなひどい目に遭うということを思い知らせようとしたのです。そのことにより、犯罪を未然に防ごうと意図しているわけです。こうした考え方を「犯罪の一般予防主義」といいます。

 表門の下には、牢屋奉行石出帯刀(いしで・たてわき)以下5人の役人が執行の様子を見守っています。牢屋奉行と執行手続きを確かめに来た検使与力は裃袴の正装です。医者も受刑者の異変に備えて待機していますし、牢屋敷の鍵役4人も注視しています。何よりも刑の執行役である打役(うちやく)と数取(かずとり)を、刀を差した武士が担当していることが目を引きます。このように物々しく儀式ばった執行は、犯罪を未然に防ぐための舞台装置であると考えられるでしょう。

 一方、受刑者は軽い盗みを犯したに過ぎないのに、下帯だけの裸にさせられて、身元引受人をはじめとして大勢の人が見物する中、ムチが肩と背と尻とに交互に振り落とされるのです。苦痛にゆがむ顔は、見物人の方に向けさせられています。殴打による肉体的苦痛と恥しめによる精神的苦痛による二重の懲戒が加えられたのです。これにより、犯罪者に二度と罪を犯すまいという気持ちを起こさせようとしたのです。つまり、敲という刑罰は、再犯の防止という効果も狙っているのです。こうした考え方は専門用語で「犯罪の特別予防主義」といっています。

 以上に述べたことから理解いただけると思いますが、敲を公開で行った理由は、犯罪の未然防止と再犯防止との2つの刑罰効果を意図していると考えられるのです。敲の刑を盗みの犯罪に適用した意味がお分かりいただけたでしょうか。

――狙いは分かるのですが、更生はどのように考えられていたのでしょうか。更生というには少し“やりすぎ”な気もします。

高塩 現代の感覚では、そう考えてしまうのも分かります。公開でしかも裸にして殴打するのですから、受刑者の人権を無視しています。“野蛮な刑罰”と映るのもやむを得ません。

 しかし、歴史を考えるには「現代の目」も大事なのですが、その時代に即応して考えることが大切です。現代の価値観や感覚だけで判断すると、歴史を正しく評価できなくなる恐れが生じます。時代背景をよくよく考える必要があります。

「武士」と「身元引受人」から分かる、吉宗の聡明さ

徳川吉宗(とくがわ・よしむね):1684〜1751年。江戸幕府の第8代将軍。和歌山藩徳川家の第2代藩主光貞の四男。1705〜1716年まで和歌山藩の藩主を務めた後、1716〜1745年まで江戸幕府の将軍となる。享保の改革を推し進め、財政を復興。また、新田開発の推進や目安箱の設置といった政策も行った。

徳川吉宗(とくがわ・よしむね):1684〜1751年。江戸幕府の第8代将軍。和歌山藩徳川家の第2代藩主光貞の四男。1705〜1716年まで和歌山藩の藩主を務めた後、1716〜1745年まで江戸幕府の将軍となる。享保の改革を推し進め、財政を復興。また、新田開発の推進や目安箱の設置といった政策も行った。

――では、敲という刑罰にはどんな工夫がみられるのでしょうか。

高塩 吉宗は敲の刑に次のような工夫を施しています。

 その第一は、執行担当者についてです。打役、数取を牢屋同心という武士身分の者に担当させました。また、4人の押役(おさえやく)を牢屋下男(しもおとこ)という良民身分の者に務めさせました。この刑罰には賤民身分が関わっていないのです。変な表現ですが、受刑者にとって“名誉ある刑罰”となっていたのです。つまり、もう一度やり直せるように、更生の余地を残したのです。

――なるほど。それは確かに当時の時代背景と大きな関連性がありますね。

高塩 もうひとつ、吉宗は画期的な手法を取り入れています。それが「身元引受人」の存在です。

 絵図には、身元引受人が描かれていますが、刑を終えると、身柄はその場で身元引受人に渡されます。親や名主、大家などが身元引受人となりました。執行の当日、身元引受人は裁判所(町奉行所)に呼び出されました。そして、受刑者と一緒に判決の申し渡しを受けるのです。本人に対しては、これこれの罪で敲に処すと申し渡します。身元引受人に対しては、執行後身柄を渡すので、今後「不届之儀」がないように面倒を見なさいと申し渡しています。つまり、釈放者保護を命じたのです。

 敲の刑は、判決と執行と釈放が一日で終了しました。奉行所で判決申し渡しがあると、その足で小伝馬町牢屋敷に連行され、刑が執行されます。それが済むと即座に釈放となるのです。従来からの刑罰である手鎖(てじょう)は、手首を手錠で固定したうえで30日・50日・100日の自宅謹慎となります。押込(おしこめ)は10日・20日・30日・100日の自宅謹慎です。これらに比べて、生業の妨げとなる日数が少なくて済むわけです。

あくまで、相手に合わせた強さで“敲く”ことが大前提

――吉宗の更生に対する工夫が分かってきました。

高塩 敲における工夫は、まだこれで終わりません。「公事方御定書」は敲き方について、肩、背中、尻を交互に打ち、背骨は除くようにと明記しています。さらに、気絶しないようにとも定めてあります。

――あくまで加減しながら行え、ということですよね。

高塩 はい。敲についての吉宗の指示はさらに具体的です。刑を受けた者が「自分の足で自宅に戻れる程度に痛めつけなさい」と指示しているのです。この指示にも、仕事への速やかな復帰が考慮されているのです。

 敲に使うムチは藁で出来ていて1尺9寸(約57cm)と短かったのです。そのために、打ち手はひざまずいてムチを振り落とさなければなりませんでした。これは、受刑者の弱り具合を間近で見ながら、相手に合わせた強さで敲く狙いがあったと考えられます。

 ですから、敲の刑は病人に対しても老人に対しても執行されました。それは残酷ということではなく、あくまでも自力で帰宅できる程度に殴打するのですから、病人や老人の場合は軽く敲いたのです。吉宗は、犯罪者ができるだけ早く仕事に戻れることに心を砕いたのです。

――そういった考えが、吉宗の中にあったのですね。

高塩 だと思います。そのヒントとなるのが「敲」という漢字です。この漢字は、わが国ではほとんど使用いたしません。吉宗はなぜこの漢字を用いたのでしょうか。

「敲」という漢字をよくよく調べますと、「目的に合わせ、適度な強さで手加減してたたく」ということのようです。刑罰の敲は受刑者の様子に応じて、自力で帰宅できる程度の強さでたたくのです。

 吉宗は、受刑者の状況によって加減して敲くという意味を、この漢字に込めたのではないでしょうか。決して機械的に同じ強さでたたいてはいけないのであります。

――そこまで細かいことを考えていたと。

高塩 そうですね。彼は相当に緻密な頭脳の持ち主だったようです。

 そして、吉宗が亡くなったあと、彼と同じように過ちを犯した者たちの更生に力を入れる人物が現れます。吉宗の孫である、松平定信がその人です。彼は老中として、無宿などを社会復帰させるための仕組みを考え出しました。それが「人足寄場(にんそくよせば)」です。

 次回は、松平定信が作り上げた人足寄場について説明します。

研究分野

日本法制史

論文

表題に年号を冠する幕府法律書ー「寛保」「寛政」-(2018/03/26)

上州小舞木村郡蔵の寄場入り―幕府人足寄場の機能に着目してー(2017/11/01)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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