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渋沢栄一の「エリートらしからぬ」人脈構築術

約500の企業に関わる裏で培った人的ネットワーク

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経済学部准教授 杉山 里枝

2018年2月28日更新

渋沢栄一が大倉喜八郎らとともに手がけた帝国ホテル。(写真:国立国会図書館)

渋沢栄一が大倉喜八郎らとともに手がけた帝国ホテル。(写真:国立国会図書館)

「日本資本主義の父」といわれ、明治から大正にかけて数多くの企業に携わった実業家、渋沢栄一。彼が関わった企業の数は生涯で約500を数えるといわれており、今再びその理念に脚光が当たっている。

前回の記事:「渋沢栄一が明治時代に公益と利益を両立できた理由」

 ただし、約500の企業すべてを渋沢が主体で率いたわけではない。彼は発起人やサポートという形で、実際の経営は信頼する人間に委ねたことが多かったようだ。

「渋沢は多くの事業について、実質的な経営を他の人に任せました。発起や資金集めの部分で彼が尽力し、その後は信頼した人に託したのです。それができたのは、彼が多くの人に信用され、強固なネットワークを持っていたからです」

 こう述べるのは、経済学部の杉山里枝(すぎやま・りえ)准教授。渋沢は、いったいどれだけのネットワークを持っていたのだろうか。そして、なぜそのようなネットワークを作ることができたのか。杉山氏に話を聞いた。

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才能ある人材を見つけ、登用することも得意だった渋沢

――約500の企業において、渋沢は人的ネットワークをうまく活用しながら関わっていったとのことですが、具体的にはどのようなスタンスを取ったのでしょうか。

杉山里枝(以下、杉山) たとえば、新規企業設立の話があったとき、渋沢がその事業に意義を感じれば、発起人や設立のプロモーターのような形で関与しました。もともと大蔵省の出身であり、資金集めのノウハウは持ち合わせていましたし、会社を設立する上での利害調整にも長けていたようです。

 また、実業家としての実績ができてからは、「渋沢先生が発起人に加わってくれるなら安心」という存在にもなったため、さまざまな企業の立ち上げ援助や、裏での利害調整を行ったと考えられます。

 そういったことを重ねる中で、彼は多方面に人的ネットワークを構築し、信頼できる人材を増やしていきました。そして、彼自身が新規事業を立ち上げる際には、その有望な人材に経営面を任せていったのです。渋沢がサポートに回ることは稀ではありませんでした。

――彼の人的ネットワークとして、どのような人がいたのでしょうか。

大倉 喜八郎(おおくら・きはちろう):1837〜1928年。明治・大正期に活躍した実業家。東京電灯(電燈)や帝国ホテル、日清豆粕製造(現・日清オイリオ)など、数多くの企業を設立する。渋沢栄一ともたびたび手を組んだ。(写真:国立国会図書館)

大倉 喜八郎(おおくら・きはちろう):1837〜1928年。明治・大正期に活躍した実業家。東京電灯(電燈)や帝国ホテル、日清豆粕製造(現・日清オイリオ)など、数多くの企業を設立する。渋沢栄一ともたびたび手を組んだ。(写真:国立国会図書館)

杉山 有名なところでは、大倉喜八郎や浅野総一郎といった実業家が挙げられます。大倉喜八郎は、札幌麦酒醸造所(現・サッポロビール)、帝国劇場、帝国ホテルなど多数の事業を生み出した人で、長年にわたり、さまざまな事業で渋沢と手を組みました。

 浅野総一郎は、浅野セメント(現・太平洋セメント)を立ち上げた人物ですが、その浅野を早くから評価し、サポートしていたのが渋沢でした。

 また、渋沢は大阪紡績会社(現・東洋紡)を起業して成功を収めますが、実はこの経営に深く関わっていた山辺丈夫も、渋沢がいち早く目をつけて指南した一人でした。ちょうどイギリスに留学していた山辺に、現地の紡績技術を学ぶよう進言し、彼を援助し続けました。それが、大阪紡績会社の成功につながります。

――能力のある実業家と手を組んだり、才能のある人材を支援したりしたのですね。

杉山 そうですね。この他、渋沢は東京商法会議所(のちの東京商工会議所)の会頭として、中央・地方の双方で人的ネットワークを形成していきました。富士瓦斯紡績の経営者として知られ、その他にも第一生命保険や伊藤忠など、さまざまな企業の設立にも関与した和田豊治なども、渋沢とつながりがあったんですね。

 なお、当時は財閥系が成長していた頃でした。非財閥の代表となる渋沢は、財閥と対立する存在として語られることも多いですが、実際は三菱の岩崎家や、安田とも交流があったのです。

 加えて、大隈重信をはじめ井上馨、伊藤博文など、政界とのパイプも強固だったようです。それは、さまざまな事業を円滑に進める上で、大きなポイントになったのではないでしょうか。

なぜ渋沢は、別の人材に経営面を任せたのか

――それにしても、なぜ彼は多くの人と強固な人脈を築けたのでしょうか。

杉山 その理由として、彼が直接人と会って対話をする「面談」を非常に重視したという点がポイントになると思います。わずかな時間でも、渋沢は人と会うことを厭わず、日本橋兜町に設けた事務所によく人を招いたと言います。この他にも、彼が経営に携わった第一国立銀行本店も活動の拠点としていました。

 それだけでなく、渋沢は地方にもよく通いました。これは記録にも実際残っています。なお、その際には鉄道を利用することが多かったようです。また、郵便、電信、電話といった、当時としては新しい通信手段もあり、渋沢自身、もちろんそうした手段を取りいれ、活用していました。しかしながら、彼は会って話すことに重きを置いたんですね。そうして、会って話す中で相手の心を掴み、信用を得たのではないでしょうか。

――実際に会って、その人柄に触れてみたかったのですね。

杉山 そうですね。おそらく、渋沢はエリート特有のプライドの高さとは無縁の人だったはずです。

 当時、武士階級にあった人たちが商売を始めると失敗してしまうケースがありました。「士族の商法」といわれるケースです。もちろん、その理由としては単に商売に不慣れであったからということもありますが、その他にもそれまで持っていた武士のプライドが邪魔してしまうんですね。

 渋沢は、武家の出ではありませんが、一橋家に仕え、その後は大蔵省に勤めるなど、エリートの道を歩みました。そういったエリート特有のプライドの高さはなかったと考えられます。

 その証拠に、彼は何度も地方に赴いて演説をこなしていますし、記録からも細やかに対応していたことが分かります。高いところから見下すタイプではなかったのでしょう。それも大きかったかもしれません。

――言葉として正しいか分かりませんが、「気さくな人」だったのかもしれません。

杉山 そうかもしれませんね。それともうひとつ、実際の彼の行動を見る中で、信用を高める人も多かったのではないでしょうか。

 たとえば、当時の株主総会は紛糾することが珍しくありませんでした。そういったケースで、渋沢が調整役として尽力したケースが多々あります。

 ただ、渋沢が株主総会の議長として紛糾する総会のとりまとめを行ったことが分かる場合もありますが、議事録からは具体的な動きが分からないケースもあります。しかしながら、手紙のやりとりや関係者の発言などから、渋沢がさまざまな利害の調整に尽力したということが分かっています。

 こうしたことから分かるのは、議事録には渋沢の名前が出ていないけれど、彼が裏で動いてある人を説得した、意見が変わったという事例もたくさんあったということでしょう。渋沢は「縁の下の力持ち」を文字通り実践してきたんですね。

 そういった姿を見て、渋沢への信用が増し、人的ネットワークがさらに広がっていったのかもしれません。

――ところで、なぜ渋沢はこれほど多くの人に経営を任せていったのでしょうか。

杉山 それはやはり、彼が公益を追求していたからでしょう。国全体が成長するには、自分だけで経営していてもダメで、なるべく多くの人材とともに成長したいという視点があったはずです。だからこそ、彼は三井や三菱のような財閥を作らなかったのではないでしょうか。

 渋沢は、二代目三代目と、特定の家系でつないでいくような事業はしませんでした。それは、彼が掲げた「公益の追求」そのものだと考えられます。

多くの経営者を育てることにつながった、渋沢のスタンス

渋沢 栄一(しぶさわ・えいいち):1840〜1931年。埼玉県の農家に生まれ、若い頃に論語を学ぶ。明治維新の後、大蔵省を辞してからは、日本初の銀行となる第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監役に。その後、大阪紡績会社や東京瓦斯、田園都市(現・東京急行電鉄)、東京証券取引所、各鉄道会社をはじめ、約500もの企業に関わる。また、養育院の院長を務めるなど、社会活動にも力を注いだ。(写真:国立国会図書館)

渋沢 栄一(しぶさわ・えいいち):1840〜1931年。埼玉県の農家に生まれ、若い頃に論語を学ぶ。明治維新の後、大蔵省を辞してからは、日本初の銀行となる第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監役に。その後、大阪紡績会社や東京瓦斯、田園都市(現・東京急行電鉄)、東京証券取引所、各鉄道会社をはじめ、約500もの企業に関わる。また、養育院の院長を務めるなど、社会活動にも力を注いだ。(写真:国立国会図書館)

――これだけの人的ネットワークを作った根底にも、やはり「公益の追求」があったんですね。

杉山 そうですね。その考えにより、彼は非財閥のスタンスを通したのですが、逆にそうしたスタンスでなければ、約500もの企業に関わるほどの人脈は作れなかったかもしれません。

――詳しく教えてください。

杉山 同時期の財閥が行っていた事業と、渋沢が手がけた事業を比較すると、分野の広さに違いがあります。当然ながら、渋沢の方がずっと広く、紡績、瓦斯、海運、電力、製紙、鉄道、製糖、ビールから社会事業まで、多岐にわたって関わっています。一方、財閥もさまざまな企業を手がけますが、重工業、銀行などが中心で、渋沢ほどの広がりは見せていません。

 実際、三菱の4代目社長となった岩崎小彌太は、教育や政治など、いろいろとやりたいことがあっても、あくまで財閥のトップとして社長業を全うした側面がありました。

 対して、渋沢はそうした制約なく、自分の興味ある事業や重要と感じることに取り組んでいきました。そして晩年は、社会事業への関わりを深くしていきます。それは財閥のようなしがらみがないからできることであり、そのスタンスだからこそ、いろいろな人と手を組んでネットワークを広げられたと考えられます。

――非財閥であることが、自由にネットワークを作れる環境そのものだったと。

杉山 はい。彼から経営を任された相手にとっても、非財閥を貫いた渋沢のスタンスが良かったのかもしれません。

 財閥もいろいろな会社を設立しますが、あくまで財閥本社があって、その下に子会社があるという形式でした。もちろん、財閥の拡大にしたがって子会社の意思決定の範囲も広がっていきますが、最終的には“上の意向”が重視されたりすることが付き物です。たとえば三井は、本社における社員総会を三井家のみで行いました。専門経営者の経営への関与の度合いが比較的強かったといわれる三菱でも、やはり財閥のトップには岩崎家がいる構造でした。

 対して、渋沢から経営を任された人たちは、もっと自由に采配をふるえたのではないでしょうか。自分の意向で経営戦略を取りつつ、困った時は渋沢のアドバイスや援助をもらえる。常にお伺いを立てたり、渋沢の動向を逐一気にしたりする環境だったら、これだけいろいろな経営者がついてこなかったと思います。

――有望な人材に、本当の意味で「経営を任せた」からこそ、その人材が育ったのかもしれませんね。

杉山 一方で、彼自身が長く舵を取った事業もあります。そのひとつが、養育院(現・東京都健康長寿医療センター)の院長です。これは社会事業として行ったものでした。

 渋沢は、約500の企業に関わるとともに、約600の社会事業に携わりました。そして、実業界を退いたあとも、社会事業においては最後まで力を入れ続けます。養育院はその代表でした。こういった社会事業への貢献も、渋沢を語る上で欠かせません。

 彼はどのような社会事業に関わり、どんな理念で実行したのか、次回ご紹介します。

 

 

 

杉山 里枝

研究分野

日本経済史・経営史

論文

「今こそ学ぶべき渋沢栄一の経営理念」(2024/03/20)

「中京財界と渋沢栄一」(2023/07/01)

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