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出雲大社の謎
古代に存在した巨大神殿のルーツに迫る

考古学と古事記で巡る日本ヒストリー episode2

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神道文化学部 教授 笹生 衛

2018年2月28日更新

 「古事記」などで伝えられる日本の神話。それらの背景を考古学から迫ると、本当の〝古代〟が見えてくる。第2回は、出雲大社がかつて〝巨大神殿〟だった、その秘密を考古学で解き明かす。 

出雲大社本殿は屋根の大きな千木が印象的。写真手前の社にはタギリヒメノミコトが祀られる。

出雲大社本殿は屋根の大きな千木が印象的。手前の社にはタギリヒメノミコトが祀られる。

境内から出土した多数の巨木

語り継がれた、かつての出雲大社

「縁結び」で知られる出雲大社。その社殿は定期的に遷宮が行われるが、はるか昔は想像を絶する巨大神殿だったのかもしれない。

 それを示唆するのが、平成12年から13年にかけて出雲大社の境内から発見された巨大な柱。3本1組となったスギの大木が3箇所で発見されたのだ。それぞれの木は直径が1・4mほどで、3本括ると直径約3mにも及ぶ。

出土した宇豆柱。3本を金輪で束ねていたと考えられる。

出土した宇豆柱。3本を金輪で束ねていたと考えられる。

 この巨木は3本を束ねて一柱とし、かつての出雲大社の棟を支えていた可能性が高い。というのも、大社には古代の巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営差図」が伝わるが、そこに描かれた柱と類似。出雲大社の本殿は高さ16丈(約48m)という社伝があり、その一部とも考えられる。発見された柱は「心御柱(しんのみはしら)」や「宇豆柱(うずばしら)」で、鎌倉時代のものと推定され、この時代までの出雲大社が巨大だったことの証明となっている。

出雲大社の境内には、宇豆柱の出土地点を示す印がある。

出雲大社の境内には、宇豆柱の出土地点を示す印がある。

 実は歴史書『古事記』にも、出雲大社の成り立ちとして巨大神殿の逸話が出てくる。出雲大社に祀られる大國主神(おおくにぬしのかみ)は、国土の開拓で活躍した〝国づくりの神〟として登場する。だがある時、アマテラスオオミカミの命を受けたタケミカヅチ(茨城県・鹿島神宮に祀られる)から「国を譲ってほしい」と交渉されると、大國主神は了承する代わりに一つの条件を出した。それは「天皇と同じ立派な宮殿をつくってほしい」ということ。それができればそこに静かに鎮まると。具体的には「宮殿の柱を太く立て、立派な千木を差し上げてほしい」と言ったという。それこそが出雲大社である。となると、この記述からも巨大な柱との繋がりが見えてくる。時代を経て、出雲大社は今の大きさとなったが、かつては遥かに巨大だったのだろう。

古代出雲歴史博物館にある、平安時代の出雲大社本殿模型。

古代出雲歴史博物館にある、平安時代の出雲大社本殿模型。

 とはいえ、なぜここまで大きな神殿が出雲にできたのか。まずは大社の成り立ちを知る必要がある。古事記は8世紀はじめに編纂されたが「出雲大社の成り立ちは、さらに前の時代が関係している」という人がいる。國學院大學 神道文化学部教授の笹生衛氏だ。古代の祭祀を研究する「祭祀考古学」の研究者である同氏は、出雲大社境内の発掘調査から、古事記誕生前の様子をこう推察する。「発掘調査では、境内から4世紀後半の土器や勾玉といった祭祀の遺物が見つかりました。土器はまとまった数が出てきたので、普通の生活ではなくお祭りに使われたものと考えられます。すでに4世紀後半には、神への何かしらの祭祀が行われていた証拠です」

 

発掘された遺跡からも分かる 古代出雲の重要性とは

さらに笹生氏は、境内で発掘された土器から「当時の出雲がいかに重要な地域だったか」がわかるという。

「4世紀後半はヤマト王権、倭国が成立していた時期ですが、出雲大社で出土した土器は、現地の土を使いながらヤマトの形をしたものが含まれます。ヤマトの土器の作り方を知っている人間が、出雲に出向いたのかもしれません。それほどヤマトは出雲を大切にしていたのでしょう」

 つまり、4世紀後半にはすでに出雲で祭祀が行われ、しかもヤマト王権も重要視するほどの力があったといえる。

「出雲大社だけでなく、その付近からは銅鐸や銅剣、銅戈といった遺物も発掘されています。4世紀よりさらに前、弥生時代に作られたと推測できるものも多く、もしかするとその頃からもう出雲は勢力を持っていたのかもしれません。だからこそ、その表れとして巨大神殿が生まれたと考えられます」

 

DJ(出雲)⑥

出雲地域では銅剣や銅鐸が数多く出土。

出雲地域では銅剣や銅鐸が数多く出土。弥生時代のものと推定され、貴重な銅を使われていたことから当時の勢力がわかる。

弥生時代のものと推定され、貴重な銅を使われていたことから当時の勢力がわかる。

 話を聞くと、新たな疑問も湧いてくる。なぜ出雲が大きな勢力を持ち、重要な地域になったのか。笹生氏は「出雲が海上交通の拠点となったからではないか」という。そのカギこそが、島根県内を流れ宍道湖に注ぐ斐伊川だ。

「現在の斐伊川は、途中から内陸へと進路を曲げて宍道湖に流れていますが、古代ではちょうど反対方向となる出雲大社の方へ曲がり、大社の近くを通って日本海へ流れていました。そのため、日本海を行き来した船は、海からそのまま斐伊川を利用して内陸に停泊できます。当時としては、非常に良い港だったはず。結果、出雲は重要な港湾として海上交通の拠点になった可能性が挙げられます」

DJ(出雲)⑦

 前回紹介した宗像大社の宗像三女神は「海上交通の神」だったが、これも出雲大社と関連している。三女神の一柱「タギリヒメノミコト」が出雲大社の神魂神子神社に祀られているのだ。宗像と同様、出雲が海上交通の拠点だったからこそ、このつながりがあるのかもしれない。

「海上交通の拠点は、朝鮮半島などから先進的な文化が入ります。人の交流も盛んに行われたのでしょう。それが出雲を特別な場所にし、巨大な出雲大社を設営するほどの信仰が生まれたのではないでしょうか」

 縁結びスポットとして定着する出雲大社も、古代の祭祀や古事記を紐解くと、本当のルーツが見えてくる。そしてそこには、深く心に残る出合いがある。

古事記とは?

日本最古の歴史書で、数多くの神話を記載。國學院大學では、文部科学省の平成28年度「私立大学研究ブランディング事業」に「『古事記学』の推進拠点形成−世界と次世代に語り継ぐ『古事記』の先端的研究・教育・発信−」が採択され、大学独自の「古事記学」構築を目指している。

 

笹生 衛

研究分野

日本考古学、日本宗教史

論文

宗像・沖ノ島における古代祭祀の意味と中世への変容―人間の認知と環境変化の視点から―(2023/03/31)

「災い」神を変える―9・10世紀における災害対応と神の勧請―(2022/01/25)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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