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明治維新に由来する皇典講究所の創立

初代総裁就任前史

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研究開発推進機構 助教 渡邉 卓

2018年1月29日更新

 本学は平成29年で135周年を迎えたが、その創始は母胎であった皇典講究所の創立に端を発し、そして皇典講究所の創立は明治維新の歴史と深く関わる。創立に当たっては不明な点もなお多いが、初代総裁に有栖川宮幟仁親王をお迎えする経緯について述べてみたい。

明治32年頃の校舎(飯田町)

明治32年頃の校舎(飯田町)

 明治新政府は、早くから国民を教化し、政府の政治体制を宣布するために教育や布教の体制を整えた。明治3年1月には「治教を明らかにして惟神の道を宣揚すべし」という大教宣布の詔が発布され、その中枢機関として大教院が、官吏として教導職が明治5年に設立された。この大教院の神殿には造化三神(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)と天照大神とを鎮祭した。7年には大教院解散に先立ち、後継機関として神道事務局が組織され、祭神は八百万神を加え引き継いだ。しかし、13年の神道事務局神殿新設の際に、祭神をめぐり、大国主神を合祀するか否かで神道界を二分する論争が起こった。いわゆる祭神論争である。これによって神道事務局を中心にまとまっていた神道界は歩調が乱れることとなってしまう。この事態収束のために勅裁を仰ぐこととなり、14年に祭神は宮中三殿の天神地祇・賢所・皇霊を遙拝することとされ、論争に終止符が打たれることとなった。この勅裁には、教導職の総裁として有栖川宮幟仁親王を就任させることがあわせて下されている。
 翌15年1月に幟仁親王は総裁職を辞任するものの、3月に神道界は改めて幟仁親王を神道総裁に推戴した。そして、神道界は教学の刷新をはかることとなり、皇典講究所を設立、親王を同所の初代総裁として迎えたのであった。親王は17年に神道総裁を辞されるが、同所の総裁には留まり続けられた。学報連載コラム「学問の道」(第4回)

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