明治27(1894)年11月に刊行された『國學院雑誌』は130年を経て今年は125巻、1400号を超えた。その誌面は時代ごとに刷新され、新たな研究を発信し続けている。内容だけでなく、雑誌の構成も表紙デザインも、明治・大正・昭和・平成と時代に応じて更新されてきた。このような長きにわたり刊行が続けられてきたのも、寄稿を掲載するにあたり編集を担当する人々がいたからである。
大正13(1924)年11月の『國學院雑誌』(第30巻第1号)では、刊行から三十巻に達したことを機に「國學院雑誌編輯回顧録」という特集が組まれ、編集の任に当たった、堀江月明(秀雄)・石川岩吉・河野省三が文章を寄せている。この段階で回顧記事が組まれるということは、当時において一定の社会的役割を『國學院雑誌』が果たしていたことを示していよう。明治42(1909)年から大正4(1915)年までの担当だった石川は、当時1500部前後の印刷費の負担から、財政難に陥ったことを回顧する。それによる『國學院雑誌』廃刊の意見があったこと、財政難を抜け出した後に他雑誌と合併意見もあったことなどを回想している。また大正7年から9年の担当であった河野は『國學院雑誌』を「自分にとつて最も親みの深い本誌」と評しており、実際に編集を担当した人物たちの名を挙げつつ、特集号にまつわる苦慮や、当時の思想界に処する対策などがあったことを記している。そして、『國學院雑誌』を「常に其の本領を失はないやうに、而して充実した力を以て其の本領を発揮するやうに切望するものである」と展望したのであった。
国学研究の第一人者である河野が編集から退くとき、折口信夫は、「異訳国学ひとり案内―河野省三足下にさゝぐ―」を『國學院雑誌』(第26巻第10号・第12号、大正9年10月・12月)に寄稿した。この論考で折口は、これまでの国学研究を批判している。そして、このとき折口には、自分が思う国学観・文学観に基づいた雑誌にしていこうとする思いがあったようである。同年、折口は小林謹一宛ての書簡に「都合によると、学校の雑誌を、友人らとやることになるかも知れません。さうすれば、すこし、読みごたへのあるものに改めたい、と考へて居ます」(11月3日)、「國學院雑誌は、お察しの通り、一月からいよいよ、私どもですることになりました。わからずやどもと喧嘩する迄は、やって見よう、と思ひます」(11月22日)と書いている。折口は『國學院雑誌』刷新の意欲を強めていたのである。
このように『國學院雑誌』は、時代ごとに携わった人々の支えによって、今日まで続いている。雑誌の歴史は本学の歴史、または人文学史ともいえよう。本学の研究の顔である『國學院雑誌』は、これからも充実した研究と読み応えのある特集を発信し続けるであろう。

各時代の『國學院雑誌』
※國學院雑誌について
※学報連載コラム「学問の道」(第66回)
渡邉 卓
研究分野
日本上代文学・国学
論文
「上代文献にみる「吉野」の位相」(2024/03/22)
「中世の日本書紀註釈における出雲観―『釈日本紀』にみる「出雲」の文字列から―」(2021/03/31)