平成31(2019)年4月に就任し、現在2期目を務める針本正行学長が、中期5ヵ年計画で掲げた三つの教育目標「問い直す」「学び合う」「共に生きる」。前回の「問い直す」に続き、今回は「学び合う」について聞く。
「問い直す」と「学び合う」の往還が自らを更新する
━━「学び合う」とはどういうことでしょうか。前回お話しいただいた「問い直す」との関係は。
「学び合う」は、基本的には「問い直す」につながる術語だと思っています。
過去の研究を繰り返し問い直すことにより、現在や将来の研究のあり方が展望される。その課題についての自分自身の考えと、過去の研究史とを対峙させることにより、新たなものが見えてくる。それが「問い直す」であると、前回のインタビューでお話ししました。
友人との間で行う研究発表や課題提起においても、これと同じことが言えるのではないでしょうか。過去の研究を繰り返し問い直すことによって見えてきた自分の考えを、学友に対して開陳する。あるいはその逆に、他人の考えを聞き入れ受けとめる。その際には、過去の研究を学ぶのと同様に、常に疑問を持ち、問題の所在、根本のあり方を考えながら、問いかける。これが「学び合う」です。
そして、学友と学び合うことで見えてきたものをもって、再び過去の研究史と対峙し、問い直す。このように「問い直す」ことと「学び合う」ことを行ったり来たりする。その往還により、自分のあり方や考え方を更新していくことが可能になるのだと思っています。
━━同志と一緒に学ぶ環境は大学に以前から備わっていたものだと思います。今改めて、教育目標の一つとして「学び合う」を打ち出したのはなぜですか。
コロナ禍などもありましたが、人との関わり合いが難しい時代です。一体どのようにして人との関わり合いを持ち、自分のあり方を問い直し、学び合うことができるのかが、重くのしかかっています。
それに加えて、急速な発展を遂げている生成系AIの存在が念頭にあります。生成系AIは、こちらから問いかけると、答えを返してくれます。こうした関係もまた、「学び合う」こと、「問い直す」ことだという人もいるかもしれませんが、私の考えは少し違います。
問題は、生成系AIから答えが戻ってきた時に、もう一度「問い直す」ことができるかどうか。それなしにAIに問いかけるというのは、相手に考え方を委ねる行為であり、それは「〜合う」であるとは言えません。
生成系AIの回答をもってよしとしてしまうのは、自分自身にその問題に対する事前準備や認識、資料に対する考え方、過去の研究史に対する知の蓄積がないからです。だから提示された答えを無自覚に受け入れてしまうのです。もう一度「問い直す」ためには、その課題に対して、あらかじめ自分なりの知識なり考え方を持っていなければなりません。
本来は、他の学友との間で行うのと同じように、生成系AIの出した回答に対しても問いかけ、問い直し、その問題に対する自らの考え方を見直してみる必要があります。手軽に回答が得られるようになったこの時代だからこそ、そういうことがより大切になってきているのではないでしょうか。
「学び合う」ことの前提にある人間的な信頼関係
━━答えを鵜呑みにしてしまう問題は、生成系AIの登場以前から、友人との間などでも起きていたのでは。
「彼が言うのだから間違いない」という思いのあり方は、確かにあったと思います。我々も正解のない課題について議論をする際、「この問題は〇〇さんに聞くのがいいのではないか」「そうだよね、それでいきましょうか」と身を委ねたくなることがあります。そういう弱さが人間にはあります。
しかし、そうした判断は、それまでに築いた信頼関係に基づいて行われているものです。人と人は、その問題だけに特化した形で関わっているわけではありません。それまでの何年、何十年の関わり合いがある中で「この件についてはこの人の意見を信頼しよう」「敬意を持って対峙しよう」という無意識の判断がなされているわけです。
この「長い時間をかけて構築された人間的な信頼関係が前提となっているかどうか」という点が、AIとの関係と本質的に異なるのではないでしょうか。
学友との学び合う関係は、人間的な信頼関係が前提になります。信頼関係が土壌としてある中で問いかけをし、答えをもらい、再び問いかけをする。それをお互いに行うことにより、「学び合う」ことが成立するのです。
もちろん、AIとの間でも、将来的に同じような信頼関係が築かれる可能性を否定しません。ひと声かけるだけで患者に安心感を与える「赤ひげ先生」のような医療ロボットが、今後出てくるかもしれません。
ですがその場合も、患者の苦しみや家族との関係などの深い理解があって成り立っているはず。その意味でやはり「人間的」な信頼関係が前提になっているといえるでしょう。
━━「学び合う力を涵養する」という教育目標を達成するために、どのようなことを考えていますか。
具体的な例を挙げるとするならば、教員と学生の1対1ではなく、複数の学生が同じテーマについて勉強し合う機会を大事にしたいと考えています。そうすることで、同じ課題についても「彼・彼女は自分とは違う考えを持っているのか」と気づく機会を作る。するとそこから「今度は図書館で一緒に勉強しよう」などと、その問題以外についてもいろいろと話し合う関係になるかもしれません。
先ほど私は「学び合うことは人間的な信頼関係が前提になる」と言いましたが、一方では、他者と学び合うことをきっかけとして、人間的な信頼関係が構築されていくこともあります。
そこでいう「他者」は、必ずしも友人だけでなく、本をはじめとするさまざまなメディアを通じて他者の考え方と出会うこともあっていいと思っています。たとえば、同じニュースであっても、新聞によってその打ち出し方は異なります。そこには各メディアの価値観が反映されているでしょう。同じ事実に対しても異なる認識があり得るのだと気づくきっかけは、さまざまなところにあります。
142年受け継がれる「学び合う」ための伝統
━━「学び合う」ことに関して、國學院大學だからこそといえる部分はありますか。
本学の母体となった皇典講究所の初代総裁有栖川宮幟仁親王の言葉に「本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ」とあります。「本ヲ立ツル」とは、ものの根本原理を明らかにするということです。つまり、真理を探究すること、日本の国柄、日本文化の淵源をたどり明らかにすることが、本学の本学たる所以です。
本学で学ぶことは、自分がよって立つところ、今を生きる自分の証明になります。たとえば、縄文式土器、弥生式土器というものがありますが、その時代時代に固有の日本のあり方とは何なのか。それは自分にどうつながってくるのか。さらには、どういう言語が発生してきて、それがどのように今へとつながっているのか……。こうした問いかけをすることにより、今の自分のあり方が見えてくるわけです。
また、昨年創刊130年を迎えた「國學院雜誌」の発刊の趣旨には、国史国文を明らかにすることと同時に、「新彩を発揮する」とあります。つまり、過去の研究史を問い直すだけでなく、そこから現在の研究を新しく提起し、さらには未来の未知のあり方に対しても提起していくことが求められているということです。私自身も、國學院大學はそうやって知を創造する場でありたいと、常々思っています。
けれども、知の創造は一人でできることではありません。他者との関係の中で「問い直す」「学び合う」ことを通じて、今までのあり方を更新していった先に、新しい知の創造があります。
本学では、1万人の学生のうち、約200の部会にのべ約7000人がサークル・課外活動に参加しています。単位にならない課外の学びを志向する学生が多いということです。
その中には、院生や助手も在籍して、特定の学術分野を探求する学術研究会もあります。振り返れば、私自身も大学1年の頃、研究会での先輩方との出会いを通じて、研究の何たるかを学びました。研究史を知っていることが研究だと思い込んでいた当時の私に、先輩たちは繰り返し「お前の考えは何なんだ」と問いただしてくれました。そういう学問への姿勢と環境は、創立から140年を越えた今もなお受け継がれているのです。