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なぜ「問い直す」なのか。そこから見える大学観、人間の可能性

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学長 針本 正行

2024年1月1日更新

 平成31(2019)年4月に就任し、現在2期目を務める針本正行学長が、中期5ヵ年計画で掲げた教育目標が「問い直す」「学び合う」「共に生きる」の三つだ。今回はその中でも最重要項目と位置付ける「問い直す」について深掘りしていく。「問い直す」とはどういうことか。なぜ今改めて「問い直す」ことを掲げるのか。

 

問い直すとは、物事の本質に迫る行為

——教育目標の柱に掲げる「問い直す」とはどういうことですか?

 「問い直す」とは、今ある知が獲得されてきた過程や根拠を一つ、また一つと問うていくこと。そのことにより、究極的には、物事の本質に迫る行為であり、次なる課題を生み出す契機でもあります。

 私は一人の人間であると同時に、一人の研究者でもあります。自分の価値観や人間観には、研究の中で育まれたものもあるように思います。「問い直す」もそうしたものの一つかもしれません。

 私が専門とする源氏物語には、平安時代末からの研究史があります。それだけ長く研究されていれば、あらゆることに答えが出ているのでは、と普通は思うでしょう。ところが、実際はそうではありません。わかっていること、あるいはわかっていると思っていたことが、実はわかっていなかったのだと感じることがあります。

 たとえば、高校古典の教科書にも出てくる『源氏物語』の「桐壺」の冒頭には「いづれの御時にか〜」とありますが、あの読み方も解釈も、実は明確にはわかっていないのです。

 そうした前提に立ち、一つのことについて素朴に疑問に思うと、そこから芋づる式に、どんどんと次の疑問が湧いてきます。「では、平安時代の文章はどうやって読んだらいいのか」「授業では古典文法を習ったけれども、誰がその法則を発見したのか」「そもそもその法則にはどういう本質や意義があるのか」など。

 我々はそういう言葉の歴史などを知らないまま、当たり前のようにその法則を使っていますが、改めて考えてみると、わからないことだらけです。

 このようにして古典を研究し、勉強していくと、わかっていることなど、もしかしたらないのではないか、今は正しいと言われていることも、そこに至るまでにはいろいろなことがあったのではないか、という思いになります。

 そうやって今ある知が獲得されてきた道程に意識を向けていくと、そこから物事の本質や課題が見えてくることがあります。

 問い直すことは、正解を見つける手段・方法にもなり得ますが、そうやって見つけた新たな知も、正解であり続けるというわけではありません。

 「正解があるのかな」と思いながら考えたり、この問題をこれまでの人たちはどう考えていたのか、何を根拠にそう言っていたのかと探ったりする。そういったことを通じて、内在している本質に触れる。その方がより大切です。

他者からの問いが、自分自身の成長を促す

——なぜ「問い直す」ことが教育目標の柱なのですか。大学で「問い直す」精神を育むことは、学生の人生に何をもたらしますか?

 問い直すことは、新たな自分や、自分の中に眠る潜在的な力に気づくきっかけにもなり得ると考えています。

 歴史的経緯の中で獲得されてきた既存の知を尊重し、本質や課題を探るためには、自分の存在について認識する必要があります。ある課題に対して、自分の立ち位置を知らなければ、他者の投げかけが指し示すこともわからないということです。その意味で、問い直すことは「自分自身がどのようにその課題に対峙しているのか」と問いかける契機にもなります。

 大学というのは仲間と共に学ぶ場所でもあります。

 私は論語にある「人知らずして慍(いか)らず」という言葉を度々引用します。この言葉が教えてくれるのは「他人が自分のことを理解してくれないからといって、不平を言わない」ということ。つまり、批判者の存在が自分を問い直し、鍛え直してくれるということです。

 たとえば、自分の研究発表に対して、根拠となる資料をもって批判する人もいれば、感情的に非難をする人もいるでしょう。いずれにしろ、他者から評価されること自体がすごく喜ばしいことなのです。なぜなら、評価されることにより、「どうして自分の発表が理解されないのか」「なぜ支持されないのか」などといったかたちで、問い直しが起こるからです。

 自分の発表の仕方、資料を提示する段取りがよくなかったのか。はたまた、自分の問題設定そのものが間違っていたのだろうか……。そうやって自分のあり方を問い直すことで、自分の問題意識を深めることができます。

 ですから、思考を停止してしまうと、たくさんいい能力を持っていても、それに気づくことはできません。良き他者、すなわち良き批判者に耳を傾ける姿勢がなければ、自己発見は起きません。それは目覚めるきっかけを自ら放棄するに等しいといえるでしょう。

世の中を大きく変えたコロナ禍と生成系AI

——普遍的に大切な「問い直す」を今改めて強調する理由、背景にある危機感は?

 大学の中期5ヵ年計画を策定するちょうどその時に、世の中はコロナ禍でした。そして昨年11月に登場した生成系AI。この二つが念頭にあります。

 コロナ禍により、結果的にデジタル化が進み、教育現場でもZoomなどのツールや情報機器の活用が日常化されました。それまでそういったツールを使えなかった人たちも少しずつ慣れ、新しい勉強の方法を身につけていきました。それ自体はいいことだったかもしれません。けれども同時に、人は何かに慣れると、どんどん安易に物事を判断する方向に流れていきます。

 コロナ禍に入った当初は、学生にも教員にも「この中でどのように学び、教えるのか」という問いかけがあったと思います。しかし、ツールに慣れるにつれてそうした問いかけは失われ、そのことに気が付かないまま環境だけが変化しているのではないか。そのことを危惧しています。

 さらに、それに続く生成系AIの登場が象徴的です。言語モデルを集積すればするほど質問に対する回答の精度が高まる生成系AIは、今後、より良い回答を出すように進化していくでしょう。それはとても便利ではありますが、問いかけさえ上手くすれば、どんどん人間は考えなくてもよくなっていくということでもあります。

 ここまでお話ししてきたように、自分なりに考えることをしなければ、新たな自分と出会う機会は失われてしまいます。研究的なことで言えば、過去の研究史を振り返ることなしには、新たな知の獲得はないのではないか。これが針本の考えです。

 改めて「問い直す」ことを強調する背景には、そうやって思考を停止してしまうことへの危機感があります。新しい便利な方法が当たり前になっていくと同時に、その裏側で何かが失われていくことが怖いのです。

AIもまた「良き他者」の一人である

——では、AIやテクノロジーとはどう付き合ったらいいでしょうか?

 AIも他者の一人です。AIを利用し、活用し、良き相棒となるような使い方ができるのであればいいと思います。

 具体的に言いますと、特に学生諸君には「まず自分なりに考える」ことをしてほしい。何か課題が与えられたら、まずは自分で考え、調べ、レポートを書いてみる。その上でAIを活用したいものです。

 AIは、人間社会のいろいろなあり方に対して問いかけをしてきます。その問いかけに対して考えることは、新たな自分を見つける契機になります。AIという他者に対して、人間は、あるいは自分はどう対峙していくのか。そのように考える中で、人間の眠れる能力、自分でも気づかない能力に出会うのではないでしょうか。

 先日、将棋の王座戦で藤井聡太さんと永瀬拓矢さんの対局がありました。報道によれば、AIが一時、「99%、永瀬さんの勝ち」と評価していたものの、永瀬さんが指した最終盤の一手が流れを変えたことより、藤井さんが勝ったということのようです。これについては、藤井さんがそれへ誘う一手を指したから、とも考えられます。人間同士の営みの中で、AIの形勢判断を超えたところで新しい手が生まれることもある、ということです。

 将棋のAIは5年前、10年前と比べてどんどん進化しているはずです。そのことにより、人間の将棋の技術も進歩したし、考え方も変容しているということでしょう。あるいは、藤井さんの誕生自体もAIの賜物であり、と同時に人間同士の対局の中で日々新たな藤井さんが生まれているのかもしれません。

 ですから、AIが進化するほどに人間が退化するのかと言えば、私はそうではないと思っています。先ほどから申し上げているように、多様な自分と出会ったり、多様な能力が開拓されたりすることもある。そうならなかったとしたら、それは人間の側の問題です。AIが「考えるのをやめなさい、人間の皆さん」と言っているわけではないのです。

 昔は「常識を疑う」という言い方がよくされましたが、今であれば、AIが出した答えを素朴に疑う必要があるということでしょう。そういう精神が人間の内にある限り、人間の可能性は枯渇しないと期待したいです。

針本 正行

研究分野

平安時代文学の研究

論文

「『八まんの本地』の解題と翻刻」(2019/03/07)

「國學院大學図書館所蔵『俵藤太物語』の解題と翻刻」(2018/03/07)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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