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日本と朝鮮の交流史からみえてくる、古代史の真実

日韓古代史と教育が繋ぐ対話 −後編−

  • 全ての方向け

文学部 准教授 山﨑 雅稔

2025年2月15日更新

 アジアや朝鮮半島の歴史を横断しながら、比較や交流の視点から「日本史」をみつめることで真の歴史がみえてくる、と山﨑雅稔・文学部史学科准教授は語る。歴史研究は、新しい日韓関係を模索するための大きな手がかりを与えてくれる。そんな信念を感じさせる、山﨑准教授へのインタビュー後編をお届けする。

 

 日韓の歴史対話プロジェクトに関わるようになった私は、ソウル市立大学の国史学科の“タプサ”に参加する機会に接しました。タプサは漢字語です。「踏査」と書きます。巡見旅行のことで、年に2回開催されていました。私は8回ほど参加して、各地の史蹟や文化遺産を巡ってその歴史を学びつつ、夜は学生と日韓の歴史問題やお互いのことについて談義し、交流しました。

 私たちのために、学生が徹夜してタプサのしおりを翻訳してくれることもありましたし、先生方は折にふれて日本語で説明してくださいました。当初、日本人の参加に反対していた韓国の先生もおられましたが、歴史問題に関係なく親しく交流している学生の様子をみて、考えを変え、私たちを受け入れてくれました。その先生は、植民地時代にお父さまがつらい経験をされたことを、あるとき打ち明けてくださいました。

 江戸時代を生きた雨森芳洲(寛文8年(1668)-宝暦5年(1755))は、朝鮮との外交には相手を理解して尊重しあう「誠信の交わり」が必要だと述べています。「誠信」というのは、まごころのことです。歴史認識をめぐる日韓の難しい、センシティブな議論に関わりながら、そうしたマインドに出会えたのはとても幸運だったと思います。それがいまの私自身の研究のスタンスや韓国との向きあい方につながっています。

 となりあう日本と韓国・朝鮮のあいだには、先史時代から人の行き来があり、互いに影響を受けてきました。漢字や仏教文化のなかには、中国から直接学んだものもあれば、それらを先に受容した朝鮮半島の国々(高句麗・百済・新羅、加耶諸国)から学んだものもあります。韓国で出土した木簡のなかに、長らく日本で作られたと考えられてきた漢字を使用したものも確認されていて、文字文化の常識を覆すような研究が進んでいます。日本独自の前方後円墳も、韓国の全羅南道を中心に10数基みつかっています。

 インドに起こった仏教は、6世紀に日本(倭)に伝わります。百済の聖明王が経典や仏像を贈ったとされていますし、蘇我馬子も百済からもたらされた仏像を祀るために、仏殿をつくり、尼僧をおいたとされています。東大寺を総本山とした華厳宗は、7世紀後半に新羅で発展した教学です。『華厳宗祖師絵伝』(高山寺所蔵の国宝)は、新羅僧の義湘・元暁という2人の高僧の事績を描いた絵巻として知られています。

 最近私が関心を持って取り組んできたのは、6〜7世紀に朝鮮半島や日本で造像された菩薩半跏像(半跏思惟像)の研究です。左足の上に右足をのせて、右手の指先を頬にあてて考えにふける姿をしています。広隆寺(京都)や中宮寺(奈良)、韓国国立中央博物館が所蔵する2体の金銅仏など、いずれも国宝に指定されている作例が有名です。

 じつは、平成29(2017)年にヨーロッパに滞在していた時、ある美術館でたまたま銅造の菩薩半跏像をみつけました。不思議に思って調べてみたところ、日本では紹介されていない作例でした。19世紀後半から20世紀初頭にヨーロッパで巻き起こったジャポニスムを背景に、日本から流出したもののようです。もとは日本とも関わりのあるパリのコレクターが所有していたことも分かっています。フランスのデジタルアーカイブから掘り起こした売立目録には、関西地方でつくられた、天平様式の仏像と紹介されています。

 日韓で国宝になっている菩薩半跏像に匹敵する大きさ(像高)であることも注目に値します。本来は寺の本尊として祀られていたのかもしれません。近代になって作られた贋作とみる研究論文もあります。頭部から下半身まで全身にわたって修復の痕跡が多数あることなどから、私としては売買目的の美術品として作られた可能性には慎重です。

 ところで、菩薩半跏像は、以前は弥勒菩薩がさとりを得るために天界で修行している姿を表していると考えられてきました。しかし、美術史学の見地からは見直しが行われていて、その姿は弥勒菩薩を表したものではないという見方が有力です。インドや中国にそうした例がないからです。ただ、韓国で発見されている仏碑をはじめとする史資料などを検討してみると、やはり弥勒菩薩の図像表現と考えてよいのではないかと思います。この点は、金石文や作例の検討を重ねて丁寧に研究しなければなりませんが、朝鮮半島や日本で独自に発展したローカルな要素をもつのかもしれません。

ポルトガル国立古典美術館所蔵の菩薩半跏像(山﨑雅稔撮影) 

 最後に、もうひとつ私の研究についてご紹介します。

 私は9世紀に日本と朝鮮半島、中国をつなぐ交易活動を行っていた新羅人に関心を持ってきました。仁明天皇の時に派遣された遣唐使の一員として中国に渡った延暦寺僧の円仁(慈覚大師)は、短期滞在しか許されない身分でありながら、山東半島の沿岸部に居留する新羅人の力をかりて、唐にとどまり、五台山への聖地巡礼に向かいます。

 長安での生活を経て、武宗の廃仏政策のなかで帰国を余儀なくされた時も新羅人の情報ネットワークに支えられながら、日本行きの船を得ています。円仁が残した10年におよぶ日記『入唐求法巡礼行記』は、新羅人居留地の生活や信仰、人々との交流をよく伝えています。

 滞在当初、円仁が身を寄せたのは、張宝高という人物が建てた赤山法花院というお寺でした。張宝高は、朝鮮資料のみならず、日本や中国の史料にも登場するという希有な人物です。若い時に新羅から唐に移り住み、やがて朝鮮半島西南部を拠点に中国、日本との交易を行うまでになった有力者です。韓国の国民的作家、崔仁浩(チェイノ)が書いた小説で、ドラマ化もされた『海神』(ヘシン)に、主人公としてその生涯が描かれています。

 張宝高は、博多で貿易を統括した大宰府の官人らともコネクションを持っていて、深い信頼関係を築いていました。そうした人物が830年代後半に新羅の王位継承戦争に介入して、相次いで2人の王を擁立します。しかし、その後貴族たちに疎まれて殺害されてしまいます。そのため、彼の配下にいた人々が大宰府に逃亡するなどし、残党の差し出しを要求する新羅の使者もやってきたことから、混乱の余波は日本の社会や政治にも影響を及ぼしました。そうしたなかで、朝廷は警戒を強め、新羅海商との交易を停止します。

 倭の時代から長らく続いていた新羅との関係は、ここに終焉を迎えます。私は教科書に出てくることのない交流・交易の担い手の営みが、東アジアの社会に変化をもたらし、時代を変えていくようなところに、歴史の緊張感というか、魅力を感じます。

 私が研究対象としている日本と韓国は歴史問題をかかえています。近代史や現代史だけではありません。今回はお話していませんが、古代史の研究にも根の深い問題が山積していて、それを解きほぐしていくことも大きな課題です。となりあう国、地域に暮らしながら、お互いに知らないことがたくさんあります。韓国の歴史や文化をもっとよく知れば、日本の歴史も少し違ってみえてくるように思うのですが、いかがでしょうか。

 歴史研究は、ただ過去に執着している学問のように思われがちです。しかし、歴史に目を向けずして未来はありません。日韓関係史に関わっていると、歴史研究が新しい社会の扉を開く可能性を持つことを強く感じることがあります。そこには、研究の面白さと責任が半分ずつあるように思います。

 

山﨑 雅稔

研究分野

日本古代史

論文

敏達紀にみえる「弥勒石像」と朝鮮三国の弥勒信仰(2020/11/15)

「偽書『南淵書』と権藤成卿、そして朝鮮」(2018/09/15)

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