ARTICLE

反自然主義の立場から「心」を哲学する

哲学者は世界がどうなっているかを考える ー前編ー

  • 文学部
  • 全ての方向け
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

文学部 教授 金杉 武司

2023年10月16日更新

 「心」とは何だろう。人間にとってあまりに身近で、だからこそとらえることの難しい「心」。このテーマは哲学者たちを惹きつけ、議論を重ねる対象であり続けている。「心」は、自然科学の観点でなら説明が可能なのかではないか、いや、それでは説明しきれないのではないか、と。

 金杉武司・文学部哲学科教授も、そんな「心」の哲学に取り組んできたひとり。自身の立場である「反自然主義」について語ってもらった前後編のインタビューは、「心」というトピックからやがて「世界」を見渡すような広がりを見せる。

 

 自然科学でもって、この世界はすべて明らかにできると考える立場を、哲学の世界では「自然主義」と呼びます。一方で私は、自然科学だけでは世界の真理を説明できないという、「反自然主義」という立場の哲学者として、「心」のことなどを考えてきました。

 そもそも哲学者になるとは、かつて自分でもまったく考えていませんでした。中高生の頃は、どちらかというと理数系の科目が得意で、NHKの科学番組を見るのも好きな子どもでした。家族がみな文系という環境だったこともあり、大学ではなんとなく文系の方向に進んだのですが、一方で科学史の授業を受けるなどして、面白い分野だなあ、と感じてもいました。

 ただ当時、「自然科学は一体、この世界の真理をどれほど明らかにできるんだろう」とふと疑問を抱いたことも事実です。それは、「心」の哲学を探究するようになった経緯とも重なってきます。覚えているのは、先ほど触れたような科学番組のなかの一場面です。心と脳の関係をテーマにしていた番組だったのですが、脳科学者が、ほら、脳のここの部分が反応しているでしょう、とCG画像のようなものを見せながら、これが感情です、といった趣旨の発言をしたのでした。

 その脳の一部分が、本当に「心」なのだろうか。脳科学だけで「心」というものは解明しきれるのだろうか。そもそも「心」って何なのだろう──そのように私自身、だんだんと「心」へと関心が向かっていくなかで、やがて分析哲学と呼ばれる、英語圏で盛んな現代哲学のスタイルを学んでいくことになりました。科学哲学も分析哲学の範疇ですし、「心」というテーマも分析哲学において扱われてきたという歴史があります。

 哲学の世界においても、自然主義と反自然主義に立場はわかれますし、「心」のとらえ方もそれに応じて変わります。特に現代哲学においては、自然科学の発達に伴って自然主義は全盛期を迎えており、主流派の考え方であるといっていいでしょう。そのメインストリームに対して、ちょっと待ってよ、それだけで本当に世界の全部を説明できるんですか、と疑問を投げかけるようなスタンスをとっているのが、私たち反自然主義の哲学者たちです。

 自然主義の基本的な考え方というのは「心」に限らず、この世界に存在しているものは究極的には、自然科学において存在が認められている物質やエネルギーなどの組み合わせによってすべて出来上がっているのだ、というものです。

 この説明を脳に当てはめれば、脳も細胞でできていて、その細胞も細かく見ればひとつひとつの分子や原子からできあがっている、というふうに考えられます。そうした物質の働きが脳、ひいては「心」を成り立たしめているのだ、というような理解になるわけですね。脳と心を同じものとみなす立場を心脳同一説といいまして、これは自然主義的な世界のとらえ方のひとつでもあります。

 一方で、そうした自然主義的な説明では、私たちが五感でとらえるような色や音の感じを説明できないのではないだろうか、という議論があります。たとえばいま、私の目の前にある椅子の背もたれは黒く見えていますし、手元にあるスタンプ用の朱肉は赤く見えていますが、これがこのように私に見えているという事態は、脳の仕組みだけを見ていてはわからないのではないか。

 先ほど色や音の感じという表現をしましたが、これは哲学的な用語において「クオリア」と呼ばれます。何かを知覚したり感覚したりする際、私たちの意識に現れる、それらの知覚や感覚に特有の質的特徴とでもいうべきものです。人間において不思議なのは、同じ物理的状態にある二人の主体においても、異なる「クオリア」が立ち現れることがありうるように思われる、ということです。そして、もしそのようなことが実際にありうるのだとしたら、クオリアが立ち現れる意識現象を物理的状態そのものとみなすような自然主義的な説明は成り立たない、という議論がなされてきているのですね。

 このように反自然主義の立場から、現在の哲学の主流をなす自然主義的な世界のとらえかたに対して疑問が提示されてきており、私もまた研究者としてのキャリアの多くを、反自然主義的に「心」のことを考える、ということに注力してきました。

 その上で近年は「心」だけでなく、より広い、あるいは隣り合うようなテーマにも取り組むようになってきています。たとえば「善悪」といったトピックがそのひとつです。自然科学の見方、すなわち自然主義ではとらえきれないようなものごとというのは、「心」の他にもあると考えられているんですね。

 より踏み込んだ言い方をしてみましょう。「心」や「善悪」、あるいは他のトピックのそれぞれにかんして、自然主義に反対する根拠や、その反自然主義的な説明がバラバラになされるままでは、反自然主義の世界観がきれいな“一枚の絵”として描けず、それでは自然主義に対抗するに十分でないのではないか、という感覚があるのです。こうした包括的な反自然主義的世界観にかんして、さらにそれに加えて、「問い」だけではなく「答え」を重視するという姿勢にかんして、インタビューの後編ではお話ししてみたいと思います。

 

 

金杉 武司

研究分野

西洋現代哲学、心の哲学、メタ倫理学、形而上学

論文

反自然主義的道徳実在論の擁護―体系的な存在論的反自然主義の構想の一部として(2022/11/15)

An Explanation of Hallucination and Illusion by the Direct Perception Theory(2022/04/15)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

MENU