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重要なのは問いを立て、誰もが納得する「答え」を求めること

哲学者は世界がどうなっているかを考える ー後編ー

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文学部 教授 金杉 武司

2023年10月16日更新

 ビジネスシーンなどの実用的な場面において、近年哲学的な見地や議論の方法が導入されることがままある。そしてそうした場ではよく、哲学で重要なのは、「問い」を立てることなのだとされる。いや、たしかに「問い」は重要だけれど……と、金杉武司・文学部哲学科教授は語る。あまりに「問い」ばかりが重視されてしまっては、「答え」を出すことが疎かにならないだろうか。それが、金杉教授の問題提起だ。

 「反自然主義」という自身の立場を解説したインタビュー前編を踏まえつつ、後編で言及するのは、哲学が語りうる包括的なビジョンについて。ながらく研ぎ澄ませてきたのは、横断的で、かつ説得力に満ちた、自他が納得できる「答え」の理路だ。

 

 世界のすべてを究極的には物的なものとして説明する自然主義に対して、反自然主義の立場から議論していくということについて、「心」の哲学などを引き合いに出しながら、インタビュー前編では語ってきました。私は近年こうした反自然主義的な世界観を、「心」だけに対象を限定せずに、より包括的に語っていくということに取り組みはじめているところです。

 自然科学の見地から世界のすべてを説明していくような自然主義の語りは、世界に対するひとつの包括的なビジョンでもあります。そうした自然主義に対して、反自然主義の側がひとつひとつのトピックで個別に反論していくだけでは、ちょっと弱いのではないか、という思いがあるんですね。

 自然主義に包括的にきちんと反論しうる、いや、もっといえば自然主義へ反対するだけに留まらない、より広い、世界のひとつの捉え方としての反自然主義を描き出すことはできないだろうか。それが私の、最近の大きな関心です。

 なぜ、こんなにも包括的な世界観のことを私は考えているのでしょうか。哲学の歴史を振り返れば、決して珍しいことではありません。古代の哲学者たちから、デカルトといった近代の哲学者までにかけて、多くの哲学者が、世界の包括的な説明を目指してきました。

 現代に近づけば近づくほど、そして現代哲学が発展すればするほど、取り上げられる問題や議論が複雑になり、難しくなっていきます。すると当然、個別の分野の研究に従事する人が多くなっていくわけです。そして専門化・個別化が進めば進むほど、隣の分野のことがわからなくなってしまう。

 しかし私としては、やはり全体を説明しうる一枚の絵としての、ひとつの世界観を提示してみたいのですね。もともと学問の道へ進んだきっかけが、自然主義へ抱いた疑問と共に「世界ってどうなっているんだろう」と考えるようになったことにあるわけです。いわば真理への希求心からはじまっているのですから、やはり自分自身が納得できる、一枚の絵を見てみたい、という思いがあります。

 またインタビューの前後編を通じて、私が哲学の営みにおいて、究極的な「答え」を追い求めているとお感じになる方がいるかもしれません。実は私自身、かなり意識的に「答え」に近づこうとしているところがあります。

 そしてこうした姿勢が、現代社会における哲学という営みがもっている一般的なイメージと、ひょっとしたら異なっているのではないかとも感じます。この記事をご覧いただいている皆さんのなかにも、哲学といえば「問い」を考える学問なのだ、というイメージを抱いている方がいらっしゃるのではないでしょうか。哲学においては、よりよい「問い」を引き出すことこそが重要なのだ、と。

 もちろん「問い」を立てることは、哲学における重要な側面であることは間違いありません。何が問題なのかを明らかにすること、きちんとした「問い」を立てることなしには、哲学は成り立ちません。

 そもそも「問い」は、物事の本質をとらえようとする哲学の特徴そのものから生み出されるものだと思います。たとえば「人間って何だろう」ということを考えるときに私たちは、一人ひとりの人間のことを想定するというよりは、個々人も含めた人間全体のことを一歩引いたところから考えますよね。

 こうした一歩引いた世界の捉え方をすると、自分がそれまで気づいていなかった物事の見方と出会うことがある。従来の自分にはなかった視点を得ることができるということは哲学における大事なポイントであり、気づけていなかったことへ目を向けさせてくれる「問い」のありようと重なる部分でもあります。現代社会において哲学に期待されているのが「答え」よりもむしろ、固定されてしまった視点をずらしてくれる「問い」を見つけることだというのは、こうした側面が重視されているからでしょう。

 しかし「問い」を強調しすぎるあまり、哲学とは「答え」のない学問なんだ、というイメージばかりが流布することには、バランスの悪さといえばいいのか、私は正直危うさも感じるのです。

 たしかに、千年単位の議論を経ても結論の出ていない哲学的な主題が少なからずありますし、現代において「問い」が大事なのだとされる背後には、先ほど触れた事情もふくめた妥当な理由もさまざまにあるでしょうから、一概に否定することはできません。

 しかし、仮に「答えなんてなくていいのだ」と思われてしまっているのだとしたら、すくなくとも分析哲学を専門にしている研究者の実感からはかけ離れている、といわざるをえません。2022年、『哲学するってどんなこと?』(ちくまプリマー新書、筑摩書房、2022年7月)という初学者の方向けの入門書を出したのは、いま述べた懸念があったからでもあるのです。

 なぜ哲学において議論をするのかといえば、答えを出そうとするからです。一人ひとりが異なる考えをもっていればいいのではなく、どの意見が最も説得力を持つのか、その根拠を探し求めることが、「議論をする」ということにほかなりません。

 繰り返すように、「問い」を立てるということは、間違いなく哲学の一側面です。しかし同時に、合理的に考えうる限り、誰もが納得する「答え」を求めるのもまた、哲学のもうひとつの重要な側面なのです。

 

 

 

金杉 武司

研究分野

西洋現代哲学、心の哲学、メタ倫理学、形而上学

論文

反自然主義的道徳実在論の擁護―体系的な存在論的反自然主義の構想の一部として(2022/11/15)

An Explanation of Hallucination and Illusion by the Direct Perception Theory(2022/04/15)

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