令和5(2023)年は、昭和38(1963)年に國學院大學に法学部が開設されてから60年目の節目の年にあたる。
ただし、昨年創立140周年を迎えたことを考えると、開設60年は随分最近である感が否めない。この背景には、法学部設置に至るまでの苦難の道のりがあったわけで、この機会に本学における法学関連学部設置の歴史をさかのぼりみることとしたい。
そもそも、國學院大學における法制・法学への関心は、草創の頃にまで遡及することができる。明治23(1890)年に皇典講究所を母体として國學院設立が計画されたとき、その『設立趣意書』には国史・国文・国法を中心に海外百科の学も網羅研修しつつ日本文化を究明することが述べられていた。そうした意味では、昭和38年の法学部開設は、まったく新たな教育内容を導入したという性格のものではないのである。
事実、この法学部は、既存の政経学部から法学関係を一学部として分離・独立のうえ成立させたものであった。しかも、政経学部もまた政治学部から改組されたもの(昭和24年9月)であり、さらに政治学部にしてもわずか5カ月前に新設されたばかりであった。
背景には、アジア・太平洋戦争終結後の再出発にあたり、当初法文学部設置を構想するも実現には至らず、政治学部として設置認可を得たという事情(経済学抱き合わせの政治学部を設置し、漸次政経学部さらに法学部・経済学部へと発展させる計画)が存在した。
とはいえ、これ以前の旧制時代に法学専攻の学科開設が目指されなかったわけでは、決してない。大正12(1923)年に国法科の設置を試みるも頓挫したが、これは大正7年の拡張事業計画第二期の目玉として掲げられたものであったし、このとき委員の清水澄(法学博士)は他大学・専門学校における英仏独の法律だけを講じる弊をみて、国法(わが国本来の法律)の学あるべきを提唱した。
かくて國學院大學における国法科ないし法学部の設置は、まさに悲願というに相応しい。そして、その淵源こそ前述の明治23年の『國學院設立趣意書』に求められる。当時の皇典講究所所長・山田顕義(司法大臣)らは、学科目の大別として「政治・法制・文学」を据えることを目論んでおり、趣意書はそうした素意を「この御国の制度・法律によりて国家組織の有様を知らしむべき法制学」と整えたものであった。ちなみに、さらにさかのぼって皇典講究所の開講科目には「法令」がみえ、すでに法制教授の実態のあったことを窺い知れる。この講義では、史料を通じて法の制度や実態の歴史が学ばれていた。法制・法学への関心は、皇典講究所創立以来の伝統といって過言ではない。
開設時の法学部教授陣
※学報連載コラム「学問の道」(第53回)
比企 貴之
研究分野
日本中世史、神社史、神祇信仰、神社史料、伊勢神宮、石清水八幡宮
論文
伊勢神宮の中世的変容と祭主・宮司の文書(2025/03/20)
大中臣祭主の家にかんする研究余滴-名前の「親」字の読み-(2025/03/06)