激動の一年──高等学校の国語科教育で現場に携わる当事者のなかで、2022(令和4)年度をそのように言い表す人は、少なくないだろう。学習指導要領の科目が再編されたことにより、高校の国語科教育は変化のただ中にあるのだ。
高山実佐・文学部日本文学科教授は、こうした状況をバランスよく見つめながら、とりうる次の一手を模索している。国語科教育が生徒たちに何をもたらしうるのかを真剣に考え、短歌に関する学習をはじめとした実践の面白さに心ときめかせながら。
2022年度の高等学校国語科の現場は、大きな変化の中にありました。2018年告示の新たな学習指導要領において、これまで「国語総合」一科目だった必履修科目が「現代の国語」と「言語文化」の二科目となったこと、また、選択科目として「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の四科目が設けられたことによるものです。
例えば、近代以降の様々な文章を教材としていた選択科目「現代文A」「現代文B」が、「文学国語」と「論理国語」に分化され、「文学国語」を設定する高校が減り、結果として文学が軽視される、という議論などが起こりました。ご存じの方も多いかと思います。
共通必履修科目だけについてお話しすると、二科目のうちのひとつである「現代の国語」は、実社会・実生活における言語による諸活動に必要な能力を育成する科目だと位置づけられています。「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」のうち、特に「話すこと・聞くこと」と「書くこと」に重きを置きながら言語能力を育成しようというものです。一方の「言語文化」は、上代から近現代までの日本の言語文化への理解を深める科目だと位置づけられています。
私が学生に説明するときには、「現代の国語」は“方法知”、「言語文化」は“内容知”である、というような表現をすることがあります。
「現代の国語」は、実社会・実生活で必要とされる言語能力、ことばを運用する方法を身につけようという趣旨なのだ、と理解することができます。高校を卒業して就職をするにしろ、大学などに進学するにしろ、いずれにしても「話すこと・聞くこと」「書くこと」に関する力が養われていたほうが、生きていきやすいのは確かです。
そうした力を高校生段階で既に持っている人もいるでしょうが、そうでない場合でも、確かな情報を選択し、整理・収集・理解したり、批評したり、説明資料や報告書などを作成したりする力は必要です。実社会のなかで困らない力を身につける──こう考えてみれば、「現代の国語」は生き延びるための“方法知”だ、と言ってもよいのではないでしょうか。
とはいえ、定期テストなどで一斉に採点することの難しい「話すこと・聞くこと」「書くこと」の力を授業を通してどのように評価していくのか、という難しい問題があります。学校の現場は、その試行錯誤の真っ只中にあり、一学級40名もの生徒さんたちを前に先生方は本当にご苦労されています。
一方での「言語文化」は、上代から近現代に受け継がれてきた言語文化を扱います。“内容知”という表現を使いましたが、別の言い方をすると、一人の人間として豊かに生きる力を培う科目といって良いと思っています。対になる「現代の国語」は、周囲や社会との関わりの中で支障なく生きるための力を蓄える科目、とでもいえばいいでしょうか。
実社会で必要とされる、話す・聞く力、書く力は、何とか生きていくために非常に重要です。育むにこしたことはありません。一方でそうした確かに必要だとされる実用的な面ばかりが重視されればされるほど、文化や文学といったもの、人間として豊かに生きる力となる、文学や文化を考える面は、国語科教育のなかで小さく扱われていきかねないというのも、また現実にあるように感じます。
私自身は、国語科教育において文学がもたらしうるもの──他者の発することばを認識することで他者について思考し、ことばや他者と対話しつつ自分自身について考え、未知の世界を想像したり新たな世界を創造したりすることができる、そうしたことばについて考える──文学により、豊かに生きる力が育まれるという可能性は大きいと感じています。
歌人の東直子さんや千葉聡さんとご一緒して、『心に風が吹いてくる 青春文学アンソロジー』(高山実佐・東直子・千葉聡編、三省堂、2018年)という本を編んだことがあります。
「友情」「恋」「家族」「未来」といった、中学校・高等学校の生徒さんたちにとって大切なテーマを設定し、そのテーマに沿って小説・エッセイ・詩・短歌・俳句を集め、許可をいただいた作品を掲載したアンソロジーです。「かつての教え子たちにプレゼントできるとしたら、どんな作品の、どんな部分を抜粋したら良いだろうか」などと、ことばのギフトということを思い、東さんや千葉さんととても楽しく話し合いながらつくりました。
読み手にとって、どの作品が心に迫るのか、大きな出会いとなるかは、なかなかわかりません。けれど、自分以外の誰かの状況、その中での思考や行動に触れること、それらを表現することばと出会うことは、人として豊かに生きていく力に、きっと寄与してくれるものであると思っています。
現在、短歌の学習、特に創作について興味があります。國學院大學でも高校生対象の創作コンテストを行っていますが、ネット上でも三十一文字の創作は賑わっていますし、NHK連続テレビ小説『舞いあがれ!』でも短歌創作は重要なモチーフで、さらなる盛り上がりを見せていました。短歌ブーム到来と言っても良いのではないでしょうか。
学校の現場でも、読む(解釈・鑑賞)ばかりではなく、詠む(創作の)学習をどう進めていくか、実践と議論が進められています。
短歌創作の学習は、長すぎず短すぎない伝統的な定型表現のなかで、自分の物語をつくり、思いや情景を表現できることばを探すこと、そして、隣り合う他者のことばを味わうことができます。国語科教育において文学創作を考えるとき、短歌を扱うことは、学習者をもっとワクワクさせることができるのではないか、と思っているところです。
文学は、人の生きることについて考えることができます。ある状況の中で人はどう生きるのか、何かにぶつかり、どのように感じ、考え、行動するのか。さらに、それらのできごとはどのようなことばでどのように語られているのか。そうした、さまざまな人の生きる世界に、ことばを通して出会うことができます。授業では、他者と読みを共有することで一人ではたどり着けなかった読みを新たに知り、また、他者とともに読みをつくることができます。
こうした国語科教育、授業の可能性をこれからも考え続けていきたいと思っています。
高等学校時代の国語の時間には、どんな記憶があるだろうか?前編「国語科教師が国語教育学の研究者となったわけ」はこちらをタップして進んでください