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「修理固成」の人育て ~「つくる」から、「なる」育ちへ~

おやごころ このおもい

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國學院大學名誉教授・法人特別参事 新富 康央

2023年7月10日更新

近くて遠い? 遠くて近い? そんな親の気持ちや大学生の子どもの気持ちを考えます。


 

 前号で述べたように、学生の皆さんには、高校までの「学習」から、大学での学びである「学修」への転換を、楽しんでもらいたいと願います。

 しかも、國學院大學では、明治23年に皇典講究所が教育機関である「國學院」を開学して以来、「修理固成」(つくろひかためなせ)の「学修」を基本姿勢としています。それでは「修理固成」の学修とは、何でしょうか? 

 

「つく(造)る」(欧米)対「なる」(日本)

 それは、「つく(造)る」教育に対する、「(自ら)なる」学びと総括されます。

 欧米の天地創造の創生神話では、神は、人も社会も、「つく(造)る」存在です。

 『旧約聖書』「創生の書」に依れば、「神は天と地をつく(造)られた、それが始まりであった」。人間も、「われら神に似せて、われらにかたちどって」「つく(造)りだされた」存在でした。(参照:『聖書』(フェデリコ・バルバロ訳)、講談社、1980年)

 それに比して、本学の設置理念の基盤をなしている『古事記』では、これと対照的な「国生み」が描かれています。

 イザナギノミコト、イザナミノミコトの二柱の神に、天つ神が下界の海をお示しになり、「この漂える国を修め理り固め成せ」と命じられた。それで二柱の神は「天の沼矛(ぬぼこ・玉飾りを施した矛)を賜いて」、天の浮橋(天空に浮かんだ橋)の上にお立ちになり、その沼矛をさしおろし、こおろこおろとかき鳴らしたところ、その矛の先からしたたる塩が固まり島になるのです。(参照:『古事記』(山口佳紀・神野志隆光[校訂・訳]、小学館、2007年)

 この「なる」を基本に、神は①人心の開発と②社会の開発を「国生みの」社会的責務とされたのです。

 

(自ら)なる」人育てを

 これら欧米の「つくる」と、我が国の「なる」の文化の違いは、人育てのあり様も異にします。

 欧米諸国では、教育はeducation。まさに(外部から)edu=外へ、cation=運び出す、なのです。子どもの「しつけ」も、discipline=訓練です。

 それに対し、我が国の子育てにおける「しつけ」は、早苗を本田に「しつける」田植えに由来しています。

 つまり、我が国の子育て文化は、早苗が自分自身で「一株立ち」して、すくすくと成長して稲と「なる」ように、人の育ちも自らが「なる」文化です。自分自身が伸びようとして育つのです。

 そこで、人が自ら自立して育つ(「なる」)人育てを目指す故に、本学では敢えて「教育学部」の名称を退けて、「人間開発学部」としました。
※エデュケーション」をいかに翻訳するかに当たって福沢諭吉も、子どもの自主性を尊重するという意味から、これを「開発」と翻訳しているとのこと。

 

「教職の、国学院」

 しかし、早苗が一株立ちして稲になり、稲穂をたわわに実らせるには、大変な手間を要します。引っ張り上げる「教育」以上に、伸びたいという自己向上意欲を育み、誰にも生まれながらに備わっている資質や可能性を最大限に引き出す、人の育ちを支援する手法は、まだまだ開発途上です。

 「教職の國學院」も標榜する國學院大學は、開学以来、その困難な人育ての手法に挑戦しているのです。

 今回も、明治天皇御製で締めます。家庭教育の大切さが詠われています。

「たらちねの 庭のをし(教)へは せばけれど 広き世に立つ もとゐとはなれ」(父母の教育を受ける家庭は狭いけれど、やがて広い社会に立つ土台となるのであるから、家庭の教訓は大切なものであるよ)

 

新富 康央(しんとみ やすひさ)

國學院大學名誉教授/法人参与・法人特別参事
人間開発学部初代学部長
専門:教育社会学・人間発達学

学報掲載コラム「おやごころ このおもい」第17回

 

 

 

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