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なぜ日本人は『論語』を「心のよりどころ」にするのか

ゼロから学んでおきたい「日本人と『論語』」①

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文学部 教授 石本 道明  准教授 青木 洋司

2021年6月19日更新

 近代日本経済の父と言われる渋沢栄一が著した『論語と算盤』が注目を集めている。NHK大河ドラマ「青天を衝け」が火付け役になった。難解なイメージがある『論語』だが、実は日本では古くから人々が「心のよりどころ」にしてきた。『論語』が日本でどう広がり、渋沢栄一はなぜ『論語』に関連した本を書いたのか。文学部中国文学科の石本道明教授と、青木洋司准教授が3回に分けてひもとく。

視点①「なぜ日本人は『論語』を「心のよりどころ」にするのか」

視点②「学問の基礎だった江戸時代の『論語』」

視点➂「渋沢栄一はなぜ『論語』を掲げたのか」

掛け軸に描かれた孔子

視点①「日本人と『論語』の歴史とは? 」

 『論語』とは中国・春秋時代の思想家・孔子(紀元前551年?~紀元前479年)とその弟子たちの言行を記録した書物だ。「人はどう生きるべきか」や道徳観について説き、中国や日本、朝鮮半島、ベトナムなどで後世に大きな影響を与えた。

 日本人と『論語』の関わりは古い。奈良時代に編纂された『古事記』や『日本書紀』の両方に、既に『論語』の記述がある。

 

「又百済の國に、『若(も)し賢(さか)しき人有らば貢上(たてまつ)れ。』と科(おほ)せ賜ひき。故、命(みこと)を受けて貢上れる人、名は和迩吉師(わにきし)。即ち論語十巻(とまき)、千字文一巻(ひとまき)、并せて十一巻(とをまりひとまき)を是の人に付けて即ち貢進(たてまつ)りき」(『古事記』應神天皇条より)

 

 石本教授は「日本で初めての『本』として登場したのが『論語』だったという事実に注目してほしい」と解説する。『古事記』によれば、『論語』は朝鮮半島の百済から和迩吉師(わにきし)によって應神天皇に献上され、日本にもたらされた。『論語』の言葉が発せられてから1000年ほど後になる。「登場の歴史が華々しく、当時から『論語』は特別の書(ふみ)だった」(石本教授)。應神天皇は宮中での王子の教育のために家庭教師をつけて『論語』を学ばせたという。

 例えば聖德太子(厩戸王)が制定した『十七条憲法』(※1)の第一条「和をもって尊しとなす」も『論語』の教えを取り入れている。

「有子曰 禮之用和爲貴(有子曰はく、礼の用は和を貴しと為す)」(『論語』學而「禮之用和爲貴」章)

 「聖德太子もこれはよい教えだということを認識していて、たった十七しかない憲法の中に掲げた」と、石本教授は説明する。

 興味深いのは、十七条憲法で取り入れられた「和」は、もともとの『論語』の中で最も重要な言葉として位置付けられていないという点。石本教授は「『論語』の教えの中から日本人はその時代時代で、主体的に自分たちにとって価値のあるものだけを選んできた」。

 つまり、外国の制度や書物、全てを取り入れたわけではないということだ。例えば日本は中国の科挙は根付かなかった。科挙とは中国・清の時代まで約1300年にわたり、導入されていた官吏登用試験だ。石本教授は「厳しい試験制度は、和を尊び利己を嫌う十七条憲法の日本にはなじまないと考えたのではないか」とみる。

 『論語』に話を戻そう。日本に伝来してから『論語』は長く、宮中など身分の高い一部の人だけのものだった。時代によって解釈も少しずつ変化した。中国において『論語』の古い注釈はおおむね漢から唐の時代で、新しい注釈は北宋以降になる。

 そして『論語』が爆発的に広がる江戸時代に入る。(続く)

 


※1 十七条憲法 聖德太子によって推古天皇12(604)年に成立したとされる。第一条は、『論語』學而篇「有子曰 禮之用和爲貴(有子曰はく、礼の用は和を貴しと為す)」が典拠である。

※『論語』の引用、訓読は、石本道明、青木洋司共著『論語 朱熹の本文訳と別解』(明徳出版社、2017)に拠った。

 

 

青木 洋司

論文

中村惕斎『論語集注鈔説』小考(2024/02/10)

中村惕齋『筆記書集傳』管見(2022/12/23)

石本 道明

研究分野

中国古典学

論文

『詩經』「木瓜」義解管見 : 「喩」の機能について(2022/10/17)

柳宗元「天對」と楊萬里「天問天對解」と(2022/10/17)

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