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今の北海道に残る、開拓者たちの「夢の名残」
~北の脅威から始まった、まちづくりの歴史とは(連載第4回)

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観光まちづくり学部初代学部長(予定)・新学部設置準備室長 西村幸夫

2021年1月18日更新

 日本のまちづくりの歴史を見たとき、特にダイナミックなストーリーを持つのが「北海道」だ。言わずもがな開拓地であり、そのストーリーを知ってから“まち”を見直すと、新しい発見がある。

 「北海道は、国策として開拓した地域です。しかも本格的な開拓は近代以降で、当時の計画や図面が詳細に残っている。まちづくりの計画をどう立てたのか、成功した箇所、志半ばで縮小や中止を余儀なくされた箇所はどこなのか、克明にわかります。その記録を今のまち並みと照らし合わせると、いろいろな発見があり、まちあるきがもっと面白くなります」

 このように話すのは、都市工学の専門家である國學院大學新学部設置準備室長の西村幸夫教授。北海道の開拓の歴史とはどんなものなのか。西村氏の話をもとに道のりを追っていく。

國學院大學 新学部設置準備室長・教授の西村幸夫氏。1952年生まれ。博士(学)。東京大学工学部都市工学科卒業、同大学院修了。東京大学教授、同副学長、マサチューセッツ工科大学客員研究員、コロンビア大学客員研究員、フランス社会科学高等研究院客員教授、国際記念物遺跡会議(ICOMOS)副会長などを歴任。専門は、都市保全計画、景観計画、歴史まちづくり、歴史的環境保全。

 

道もない札幌から開拓が始まった理由。カギは「北の脅威」

――今回は、北海道の開拓史について伺えればと思います。

西村幸夫氏(以下、敬称略) わかりました。明治以前の北海道は、内陸部に大きな道やまちがほぼ存在しない状態でした。松前藩の城下まち、松前を除けば、当時あったのは函館で、一足先に町人たちがまちを築き、北海道の拠点となっていました。そのほか、根室や小樽など、海岸沿いに道があり、漁業を営む人がわずかにいる程度だったと言えます。

 この状況下で、政府が北海道開拓を決めたのは明治2、3年のこと。まず、内陸部の札幌に目をつけ、開拓を計画します。
 ここで疑問に思うのは、「なぜ海上からのアクセスができない内陸部から開拓を始めたのか」ということです。海沿いに道があるなら、そこを起点に、徐々に内陸部へと進出する方が容易なはず。しかし、まちも道もない札幌から着手したのです。

――確かにそうですね。どんな理由があったのでしょうか。

西村 ひとつは、札幌が素晴らしい地形を持っていたことです。直角に曲がる石狩川の屈曲点に位置し、広大な石狩平野が広がっていました。まちづくりに適した地形だったと言えます。当時、北海道の探検者は口々に「素晴らしい土地だ」と伝え、広い平野の趣は「京都に似ている」とも言われたようです。

 もうひとつの理由は「北の脅威」です。ロシア人の樺太居住が増え、さらに南の地域へも進出していました。政府はロシアへの防御体制を強化する必要がありましたが、当時の拠点・函館は南に位置しすぎていた。より北に近い“新拠点”として、札幌に白羽の矢が立ったのです。

 開発が決定した当時は、札幌には殆ど人が住んでいませんでした。札幌のまちには、大通公園から札幌駅の方向へ縦にまっすぐ流れる創世川があります。当時は大友堀と呼ばれていました。ちょうど創世川と大通公園が交差したあたり、現在の南1条通と創世川が直交する場所をまち作りの起点としました。今も札幌の中心であるポイントが、“まちの始まり”だったのです。

――そこからどう札幌のまちづくりが進んだのでしょうか。

西村 北海道の開拓都市は、多くが碁盤状のグリッドパターンになります。それは開拓初期の札幌も、その後の旭川、帯広も変わりません。ただし、のちに開拓する帯広は外国人技師が来日し、アメリカ流のまちづくりを反映します。一方、札幌は同じグリッドパターンでも、きわめて日本的なまちづくりが見られます。

 その一つが大通公園です。元々は火除け地として作られたのですが、上から俯瞰すると、大通公園を境にして、北側に道庁や裁判所など、行政の主要施設が並び、南側は市場や歓楽街など、商業が集まっています。

 

札幌都心模式図(西村氏作成)
 

 この構造は、城下まちに似ています。中心に街道があり、武家地と町人地が分かれるような。実際、札幌のまちを計画した島義勇の計画図(石狩国本府指図)を見ても、官庁と商業を分ける構想が描かれています。

石狩国本府指図(出典:『新札幌市史』第2巻 通史2)
 

 また、島義勇はまず札幌に神社を置きました。御神体を自分で運び、現在の北海道神宮を作ったのです。この点も日本的ではないでしょうか。

旭川には、皇室の「離宮」を作る計画があった

――そういったところに、日本的なまちづくりの精神が現れていると。

西村 はい。ちなみに札幌の地図を見ると、グリッドの軸の角度が斜めにズレるエリアがあります。大通公園から南西に行った地点、旭山記念公園の手前付近です。

五万分一地形図「札幌」(部分)、1896年測図
 

 ここはもともと、屯田兵の居住区域として別に作られました。そのため、札幌の中心から伸びるグリッドが反映されず、角度がずれたと言えます。札幌の開拓にはいくつかの軸があり、各々動いていた証拠と言えるでしょう。

 アメリカのまちづくりでは、広範囲にわたってグリッドが統一される傾向にあります。しかし日本は、小さなエリアごとグリッドを整える。結果、少し移動すると違う角度のグリッドになることが多いのです。場所ごとに小宇宙ができている感覚です。

――札幌のあと、北海道開拓はどう進むのでしょうか。

西村 続いて「旭川」の開拓が行われます。札幌から旭川、網走へと中央道路をつなごうと考えたからです。この中央道路は数年という急速なペースで作られました。囚人が労働を担ったのは有名な話です。

 そうして旭川のまちづくりを行うのですが、面白いのは当時、旭川に皇族の“離宮”を築こうとしたこと。さらに、西京(京都)や南都(奈良)、東都(東京)と並び、ここを日本における第三の拠点、「北京」とする構想もありました。結局は実現はしませんでしたが、計画は閣議決定まで行ったのです。離宮の予定地も決まっており、現在の上川神社がその場所となっていました。

――それほど壮大な計画があったとは知りませんでした。

西村 今や、ほとんどの人が知らない歴史ではないでしょうか。ここでひとつ、昔のまちづくりについて興味深いお話をしましょう。測量術はあっても、航空写真や衛星写真が無い時代、どのようにまちの構想を練ったのでしょうか。それは、候補地を一望できる山に登り、眼下の景色を見て、確認したと言われています。だから全国には「国見峠」や「国見山」と呼ばれる場所が点在しているのです。

 その中でも有名なのは、旭川の西のはずれにある近文山。のちに北海道庁初代長官となる岩村通俊は、数名で山頂に登り、国見をしました。岩村は眼下の原野を見て、この場所の開発の重要性を認識。内閣に“北京”の計画を伝えたと言います。

 岩村はこの場所を訪れた翌年、明治19年に「国見の碑」を山頂に建てました。今もその碑は残っています。“まちの出発点”から現代まで、すべての歴史がわかるのは北海道ならでは。開拓都市以外では味わえないドラマがあります。

なぜ帯広は、碁盤のまち並みに「斜めの通り」を入れたのか

――確かに、まちを見る目が変わってきます。

西村 旭川の完成は明治20年頃。それから10年ほど経って、今度は「帯広」の開拓に着手します。10年も開いた理由は、帯広が南部に位置し、北からの脅威も少なく、開発の緊急性が低かったためです。北海道開拓の歴史は、北方警護と密接に絡んでいることがわかるでしょう。

 なお、帯広は開拓史の終盤であり、まちづくりも成熟してきます。北海道における都市の完成形と言えるでしょう。先ほども話したように、帯広はアメリカ人技師が計画したため、札幌とは一味違った都市構造が見て取れます。それが先ほど話したグリッドのパターンと範囲です。

 札幌と帯広では、グリッドの続く範囲が異なります。札幌はエリアが少し変わるとグリッドの軸がずれました。しかし帯広は、都心から郊外、農地まで統一したグリッドが広域で続いています。

 ここで興味深いのは、帯広の当初の計画図を見ると、縦・横のグリッドのほかに、斜めに貫く通りがいくつかあります。上から見ると、ダイヤ状に設けられているのです。

――なぜ斜めの通りができたのでしょうか。

西村 広範囲にグリッドを張り巡らすと、まち並みが均一になり“中心”が生まれにくくなります。また、まちのエリアや境界、分け目を作りにくくなります。結果、メリハリがなく、賑わいや人々の流動性も単調になる。それを防ぐため、斜めの通りを入れて中心性を持たせるケースがアメリカでもたまに見られるのです。インディアナポリスはその代表です。

 帯広も、グリッドの合間に斜めの通りが設けられました。その道のほとんどは現在無くなっているのですが、地図を見ると“名残”を見つけることができます。

 帯広駅の南南東にある「大通公園」周辺に注目してください。大通公園を中心にして、斜めに四方向へ細い道が出ているのに気付くでしょうか。航空写真で見るとわかりやすいでしょう。これは、開拓当時にあった斜めの通りの名残。これ以外にも市内には斜めグリッドの痕跡を探すことができます。でも、斜めグリッドを辿ると市街地の中心が随分と北東に寄っていることに気が付きます。実は開拓構想時にはもっと北側にもまちが作られる予定でしたが途中で計画がストップしました。そのため帯広の中心地は市街の北東側に寄ったつくりになっているのです。その歴史が、今の帯広からも発掘できるのは大変興味深いですね。

「帯広市街図」(1965年)(出典:『帯広市史』)
 

――この細い道に、そんな意味があったんですね。話を聞いて、今までとは違う視点で北海道を訪れたいと思いました。

西村 まちの歴史・成り立ちを知ると、新しい魅力が生まれます。素通りしてしまいそうな道でも、歴史を学ぶと、新しい発見があるのです。

 大切なのは、この視点で観光施策を考えることが、マイクロツーリズムや関係人口につながることです。次回は連載の最後として、これからの「観光×まちづくり」についてお話しします。

 

 

西村 幸夫

研究分野

建築計画、都市計画

論文

「東京大学本郷キャンパスの計画とキャンパス計画室の役割」(2021/07/20)

文化遺産の未来へのまなざし(座談,第3部:建築文化遺産の未来,<特集>建築文化遺産-未来へのまなざし)(2020/11/20)

このページに対するお問い合せ先: 総合企画部広報課

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