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静岡に残る「最後の城下まち」としての面影とは
~江戸時代のまちづくり、防御から交易への変化(連載第3回)

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新学部設置準備室長 西村幸夫

2020年12月23日更新

 一見、同じように見える“まち”でも、成り立ちや歴史を踏まえて見直すと、それぞれ全く違うまちの趣が浮かんでくる。そして、そういった細かな違いを楽しむことが、最近注目されるマイクロツーリズムでは重要と言える。

 「全国に点在する城下まちも、一つひとつ個性があります。城下まちは、わずか50年ほどの間に全国で一斉に作られた計画都市ですが、その構造は時期や地域の状況で変わります。さらに、当時の城下まちが近代の商業都市として引き継がれているのも注目すべき点です」

 そう分析するのは、都市工学の専門家である國學院大學新学部設置準備室長の西村幸夫教授。城下まちそれぞれにある「個性」とはどんなものなのか。そもそも50年ほどの間に作られた背景とは。同氏の話を紹介する。

國學院大學 新学部設置準備室長・教授の西村幸夫氏。1952年生まれ。博士(工学)。東京大学工学部都市工学科卒業、同大学院修了。東京大学教授、同副学長、マサチューセッツ工科大学客員研究員、コロンビア大学客員研究員、フランス社会科学高等研究院客員教授、国際記念物遺跡会議(ICOMOS)副会長などを歴任。専門は、都市保全計画、景観計画、歴史まちづくり、歴史的環境保全。

 

世界的にも、この短期間で一斉に作られた計画都市は珍しい

――今回は“城下まち”について詳しく聞きたいと思います。はじめに、城下まちは50年ほどの間にできた計画都市だと伺いました。どういったことでしょうか。

西村幸夫氏(以下、敬称略) 全国に200以上ある城下まちは、戦国時代終盤の1570~1580年代頃から作られ始め、江戸時代に入って1610年代頃までに開発されたものがほとんどです。

 わずか50年ほどで全国200の城下まちが出来上がり、大部分が明治までは都市の骨格としてあり続けてきたのです。通常、これほどの数のまちは数百年かけて作られていくもの。開発期間の短さは、世界的に見ても非常にユニークです。

 同時期にできた宿場町も同じことが言えます。徳川幕府が江戸・日本橋を起点とした「五街道」を築き、街道沿いに宿場町が一斉に出来上がりました。開発の規模は違いますが、こちらも、短期間で広範囲に作られたまちなのです。

――城下まちや宿場まちの成り立ちとして、そういった特徴があるんですね。

西村 はい。同じように、短期間で全国に一斉に生まれた都市の例がもう一つあります。6~7世紀に作られた「国府」です。奈良時代から平安時代にかけて、律令制のもとで国ごとに置かれた地方行政府です。

 城下まちも国府も、国家権力が統一され、平和になり始めた時代につくられました。しかし城下まちと国府の決定的な違いは「その後もまちが残り続けたか」という点です。国府は朝廷の権力が衰退しはじめた中世に入ると、まち自体も廃れます。国府がどこに置かれていたか、その後の研究でもすべてはわかっていません。

 城下まちは違います。戦乱が終局に向かう“政治的背景”から短期間にできた都市でありながら、現代でも多くが“経済都市”として生き続けています。これも興味深い点です。

敵を翻弄する通りの構造から、歩きやすさを重視した作りに

――確かに今もたくさんの城下まちが、都市として機能しています。

西村 しかも、わずか50年ほどで一斉に生まれながら、構造は地域ごと多様です。たとえ50年とはいえ、その間に世の中は大きく変わり、まちに求める機能も変化したからです。

 城下まちが作られた初期は、戦国時代の終わりに当たります。この頃は、まだ戦闘を考慮して城やまちが築かれており、「防御」の側面が強かった。城の立地を見ても、戦国時代の終わりは、攻められにくい山の上に築く“山城”が中心でした。その後平和な時代に入ると、城は山から降りた場所に築かれる“平山城”が増えてきます。

 更に時代が進むと、城下まち自体も「防御」から「交易」中心の構造へと姿を変えていきます。

――まちの構造が防御から交易へ変わるとはどういうことでしょうか。

西村 古い城下まちと新しい城下まちを具体的に比較するとわかりやすいでしょう。初期の城下まちの代表例である犬山を見てみましょう。地図を上から見ると、城下まちの中心を縦に貫く「本町通り」が城に向かって一直線に伸びています。一方、街を横に貫く道は少ない。敵は正面の本町通りからしか侵攻できず、横への移動も不自由。城主は、本町通りを進む敵の様子を目視しながら、何重にも防御する都市構造になっているのです。

出典:「日本城郭図(年代:江戸中期)」國學院大學図書館所蔵(無断転載禁止)
 

 

 しかし1600年以降、戦争のない江戸時代に入り、まちの構造が変わります。通りは格子状のグリッドパターンが多くなり、道が分かりやすくなる。昔のように城へ続く道が限定されたり、敵を騙すためにカギ型のくねった道が作られたりということは少なくなりました。攻撃の防御より、歩きやすさや商いのしやすさが重要視されるのです。

――それが「交易」にシフトした都市構造ということですね。

西村 はい。ちなみに、初めて大規模なグリッドパターンの城下まちを作ったと言われるのは豊臣秀吉。国家がまだ完全には安定していない段階で、将来を見据えて大阪を交易のまちにしたと言われます。そして広島の城下まちは大阪を参考に作られたとされます。

 静岡や名古屋は、交易にシフトした城下まちの最終形といって良いでしょう。静岡は、駿府城を中心にできた城下まちです。徳川家康が将軍職を退き、ここに隠居する際、まちを整備しました。名古屋城も、徳川家康が築城を決めた場所。いずれも1610年近くで、城下まちの中ではかなり新しい部類です。

 まちの基本構造はどちらもグリッドパターンです。静岡、名古屋とも戦災復興の際に道路を拡張していますが、格子状の構造は今も変わっていません。犬山とは、明らかに構造が違うことがわかるでしょう。

 一方、近代に至るまでに、静岡と名古屋とでは、まちの在り方は大きく変わります。

――どういうことでしょうか。

西村 静岡は、城下まちの頃の都市構造が今も残っており、まちの中心となる「へそ」も変わっていません。一方、名古屋はまちの形や中心が大きく変化しているのです。

 静岡は、駿府城跡の目前に静岡県庁があり、そこからまっすぐに七間町通りが伸びています。七間町通り沿いには静岡市役所や警察署など、行政の主要機関も集まっています。

静岡都心模式図(西村氏作成)

 

 七間町通りを横切る呉服町通りの交差点上には「札の辻」跡が見つかります。これはかつて高札場が設けられた場所で、商家が立ち並び賑わっていた場所の証です。

 静岡は今もこの場所が賑わいを見せており、まちの規模や構造も城下まちの頃から大きく変わっていません。適度な規模で、みなグリッドを歩き回っています。400年以上前にできたまちの多くが残り、そこを歩く人の動きも受け継がれているのです。

 対して、名古屋は大きく変わっています。当時の札の辻に当たるのは、本町通りと広小路通の交差点。しかし今は、中心地の面影がありません。近代の繁華街である「栄」も、このころは城下まちの“端”という位置でした。

城下まちの“その後”に関わる、旧日本軍の存在

――なぜ名古屋は都市の構造が変わったのでしょうか。

西村 ひとつは、都市の規模が大きく、時代の中で都心が動いたためです。また、城近くに行政施設を集中できなかったのも要因。明治維新後、名古屋城は軍所有になったためです。旧陸軍の東京鎮台や名古屋鎮台、第三師団などが使いました。結果、名古屋の行政施設を城の直近に集めることができなかった。それも都市構造が変化した要因でしょう。

 城と軍の関係性はきわめて重要です。城は軍事施設であり、明治以降、多くの土地は軍所有になりました。明治初めには、旧体制の象徴であるとされて、8割近くの城が壊されてしまいます。今も残り続ける城はそうした時代をくぐり抜けた貴重なもの。そして城下まちも、明治以降の城の在り方で変わっていったのです。

――そういったことも、城下まちの違いを生んでいるんですね。

西村 はい。城下まちは短期間のうちに一斉に整備されましたが、まちの開発は軍事秘密の要素もあったため開発状況を他のまちと積極的に共有しなかった面もあります。結果、多様な構造が生まれた。加えて、明治以降の状況でも構造は変化していきます。それらを比べるだけでも、新しい観光の楽しみになるのではないでしょうか。

 なお、まちづくりの面白さを知る上で、皆さんにぜひ知って欲しいのが北海道です。北海道の多くはゼロから開拓したまちであり、その道のりを読み解く資料も豊富です。だからこそ、開拓の歴史とまち並みを照らし合わせて見ると、非常に面白い発見があるのです。ということで、次回は北海道に見る「開拓のまち」についてお話ししましょう。

 

 

西村 幸夫

研究分野

建築計画、都市計画

論文

「東京大学本郷キャンパスの計画とキャンパス計画室の役割」(2021/07/20)

文化遺産の未来へのまなざし(座談,第3部:建築文化遺産の未来,<特集>建築文化遺産-未来へのまなざし)(2020/11/20)

このページに対するお問い合せ先: 総合企画部広報課

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