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ゼロから学んでおきたい「戦国時代」《上》

人口爆発、豊かになった日本

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文学部教授 矢部 健太郎

2020年5月29日更新

 甲冑(かっちゅう)姿の武将が馬を駆り、槍や鉄砲で武装した兵隊が集団戦を繰り広げる。農民らは田畑を荒らされ逃げ惑う…そんなイメージがつきまといがちな戦国時代。実は人口が爆発的に増加し、今の世の中につながるさまざまな技術や文化が生まれたイノベーションの時代でもあったそうです。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」でスポットライトが当たりますが、時期は研究者によってまちまちで、概ね15世紀半ば~17世紀初頭とされています。意外と知られていない時代について、「ゼロから学んでおきたい 戦国時代」として、國學院大學文学部の矢部健太郎教授(専門・日本中世史)に案内していただきます。1回目のテーマは「戦国時代の実像は?」です。

関東を支配した戦国大名・後北条氏が本拠を構えた「八幡山古郭」から小田原城を望む

戦国時代の実像は?

 戦国時代を代表する言葉として「下剋上(げこくじょう)」をよく目にします。管領が将軍に、守護代が守護大名にといったように、下の者が上の者に打ち勝つ(=剋)ことを表わす言葉ですが、中世を支配してきたさまざまなシステムが変革された象徴として取り上げられることが多いように思われます。

 「戦国時代は応仁の乱(1467~78年)に始まり、15代将軍足利義昭を奉じた織田信長の上洛(1568年)で終わる」。かつての教科書にはこのように書かれていたはずですが、近年の研究で時期はさまざまに解釈されるようになりました。長く見積もると、その期間は15世紀半ばから17世紀初頭まで、およそ170年間にも及びます。

 始まりについて、最も早い説では関東で鎌倉公方と関東管領が衝突した永享の乱(※1)、遅くは応仁の乱後に将軍の首がすげ替えられた明応の政変(※2)が挙げられます。矢部教授は「戦国の混乱は足利将軍家が自ら生み出したといえます。3代義満は存命中に将軍職を息子の義持に譲り、自らは室町殿と呼ばれ実権を握り続けますが、やがて後継者問題が発生するようになり、それに乗じて部下である管領や有力大名が力をつけ戦国に突入したのです」と解説します。事実、義満以後12代11人の将軍のうち将軍在位が20年を超えるのはたった2人で、中には6代義教(よしのり)のように籤引きで決められた将軍も出る始末です。将軍になるはずではなかった義教は求心力を高めるため躍起となり、無理な政権運営が祟って部下の赤松満祐に暗殺されてしまいます(嘉吉の変、1441年)。後の将軍では13代義輝も暗殺されています。

 このように、権威が地に落ちた足利将軍ですが、新興の戦国大名にとって「将軍ブランド」はまだ利用価値があり、武田信玄、上杉謙信のように将軍に拝謁するための上洛を目指した者もいました。最後の最後には見限って室町幕府を滅亡に導きますが、信長の上洛も将軍義昭を擁立するという大義名分があったのです。

 一方、戦国終了のタイミングとして信長上洛以外に挙げられるのは、室町幕府滅亡(1573年)▽豊臣秀吉の天下統一(1590年)▽元和偃武(げんなえんぶ、1615年、※3)等があります。「信長上洛」を戦国の終結とする説は根強いですが、矢部教授は「信長は天下人と呼ばれますが、平定したのは京都を中心とした畿内(近畿)周辺に過ぎません。戦国大名が目指したものを全国統一と定義すれば、秀吉の東国平定をもって戦国時代の終了とすべきでしょう」と強調します。

富国強兵でライバルを出し抜け

 では、戦国大名が目指したものは何だったのでしょう? 矢部教授は「ライバルと戦うための富国強兵」とします。近隣の敵を出し抜くために国力を増大させることこそが、戦国初期の大名の目標でした。各地の大名がイノベーションの土台となる民政に力を入れたことで農業、とりわけ食糧生産が向上しました。食糧増産は生産力や戦力となる人口増を可能とし、戦国後期にはついに1千万人の大台に到達しました。生産力向上に伴って経済活動が活発化、貨幣が普及することによって年貢の金納も進んでいます。貨幣経済は富の集中と豪商をも生み出しています。

※1 永享の乱:永享10(1438)年に関東地方で起きた戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発し、持氏と対立した6代将軍足利義教が上杉方について討伐を命じた。

※2 明応の政変:明応2(1493)年に管領細川政元が起こした政変。近江の六角氏征伐や河内の畠山基家征伐など、独自色を強める10代将軍足利義材(よしき)に不満を募らせた政元が、河内征伐で出陣していた義材の留守にクーデターを決行。これにより将軍は11代義澄(よしずみ)へと代えられ、その後の将軍家は二分された。

※3 元和偃武:慶長20 (1615)年の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、「元和」と改元されたことで、徳川幕府による偃武(戦いを止めること)が実現したことを指す。

 

 

 

矢部 健太郎

研究分野

戦国・織豊期の政治史・公武関係史

論文

「中近世移行期の皇位継承と武家権力」(2019/11/01)

「豊臣政権と上杉家」(2017/11/01)

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