戦国大名の富国強兵策で豊かになった日本。相次ぐ戦乱によって暗黒時代となっていたという従来のイメージが、大きく変わりつつあります。豊かな国土を出現させた数々のイノベ-ションについて、引き続き「ゼロから学んでおきたい 戦国時代」の2回目として、「実は豊かだった戦国時代」をテーマに國學院大學文学部の矢部健太郎教授に解説していただきます。
変わる農業、富も蓄積
これまでの研究によりますと、鎌倉幕府が開かれた12世紀末には600万人ほどだった人口が、戦国時代の終わる16世紀末には1200万人に達し、400年間でほぼ倍増したことが分かっています。爆発的な人口増の背景には、それだけの人間を養うだけの生産力が確保された事実があります。それこそ戦国大名の富国強兵策によって国土が開発され、日本が豊かになった証拠といえます。豊かになった国土を耕すのは武士ではありません。人口の8割を超える「庶民」が新たな時代の〝表舞台〟に躍り出てきたともいえます。中世までは搾取の対象とみられていた庶民ですが、戦国大名の中には北条早雲のように「五公五民」だった年貢を「四公六民」に改めて領民を保護する者も出てきます。
我が国の農業は古くから稲作中心ですが、戦国後期になると、越後の青苧(あおそ、※1)▽美濃の紙(※2)▽三河の綿花―といった商品作物や特産品の栽培・生産が奨励されるようになりますが、稲作に不向きだった土地が開墾されたことも要因の一つに挙げられます。商品作物の増産による変化としては、木綿の衣料が普及し、着物のルーツとされる「小袖」が一般的となったことも挙げられます。「前代までは上流階級は絹、庶民は麻が中心でしたが、服装に関しても選択の幅が広がった時代といえます」と矢部教授は評します。
中国の明との貿易を含め、経済活動が盛んになったのも戦国期の特徴です。「楽市楽座」(※3)と呼ばれる市場振興策が各地で展開され、物流も活性化。経済の興隆は貨幣経済の進展も招き、輸入された永楽銭が各地で流通したほか日本初の金貨「甲州金」も鋳造されました。その下地には、掘削技術の発達による鉱山開発があったとされます。
経済発展の影響は文化面にも波及しています。富の蓄積によって堺などに出現した豪商は、その財力によって新たな文化を生み出し、矢部教授が「庶民中の庶民」とする千利休などは、商家の出身ながら織豊政権に仕え、茶道を大成するに至っています。
政治史だけで戦国は語れない
江戸時代の繁栄の礎ともなった戦国時代の人口増加。それを可能としたのは、農業をはじめ各方面に及んだ技術革新といえます。戦国時代は、「日本史上希に見るイノベーションの時代」だったのです。
甲斐の武田信玄は、盆地での洪水被害を防ぐため「信玄堤」(※4)に代表される大規模な治水事業を展開しました。また、「濃尾平野では織田信長が掘った用水路を今も使っていると聞く」と矢部教授は述べ、着々と力を蓄えた戦国大名が大規模な土木工事を可能とする動員力を備えた大勢力にまで成長した点を指摘します。
室町初期までの大名の拠点といえば木造の屋形と戦時に使う後背地の山城が一般的でしたが、戦国後期になると平野部に総石垣を構え天守を備える城郭が築かれるようになりました。これに伴って石垣構築の穴太(あのう)衆(※5)のような職能集団発生も活躍するようになります。神奈川県小田原市には、豊臣秀吉が築いた石垣山一夜城の遺構が残されていて、400年の時を経た今も健在な穴太衆による石垣の素晴らしさを目にすることができます。戦国時代は、技術の進歩にとどまらず、動員システムの変化などによって土木部門が大きな発展を遂げたのです。「能力主義が根を張った時代でもあった。政治史ばかり追いかけていても戦国の実像は見えてこない」と矢部教授はいいます。
農業では、前代までに畿内(近畿)で普及した米麦の二毛作が東日本へも広がり、畿内では米麦にソバを加えた三毛作も始まったほか、寒冷地にも強い稲の品種改良も進み、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)など栽培時期の異なる品種が世に出たのも戦国時代とされています。栽培に関しては、人糞を肥料に用いる「下肥(しもごえ)」が使われ出したのもこの時期だといわれています。
一方で、時代の変化によって戦い方も著しく変貌しました。鎌倉中期までは武将同士の一騎打ち、すなわち個人戦が原則でしたが、南北朝の混乱期に集団戦へと移行します。さらに、応仁の乱辺りから「足軽」が戦闘の主力となり始めます。それまでは物資輸送などの担い手とされた「足軽」が、集団戦での戦闘員として槍や鉄砲を担いで戦地に赴くようになったのです。後に天下を取ることになる豊臣秀吉にしても、出自は足軽だったとする説もあるほどです。しかし、初期の足軽集団は規律が低く、戦地での略奪行為などの問題行動も少なくなかったとされます。
矢部教授によると、「戦国大名によって足軽を含めた軍団の統制が図られるようになり、足軽は長槍・弓・鉄砲隊として集団戦における役割を高めることになった」ということだそうです。戦国後期になると兵農分離によってそれぞれの専業化が進み、常備軍として練度の高い軍団が整えられた一方で、兵役を免除された農民は生産力向上に努めることとなったのですが、「弁当持参で合戦見物に出かけた」といった逸話も伝わりますから驚きです。
※1 青苧:イラクサ科の多年草で、「カラムシ」とも。茎の皮から植物繊維を採るために栽培された。越後の上杉謙信は「青苧座」を通じて統制を強め、莫大な利益を挙げた。
※2 美濃紙:現在の岐阜県南部に位置する美濃国で生産される和紙。2014(平成26)年、石州半紙(島根県)、細川紙(埼玉県)とともにユネスコの無形文化財に登録された。美濃の守護大名・土岐氏によって大量生産が計られ、全国に流通していった。
※3 楽市楽座:同業者組合の「座」による独占を排除し、商業を自由化させる制度。織田信長が支配地で行ったものが有名だが、近江の六角氏が天文18(1549)年に始めたものが史料上の初見。
※4 信玄堤:山梨県の甲府盆地西部を流れる釜無川と支流の御勅使(みだい)川の合流点に武田信玄が築いたとされる治水施設。複数の堤防等で流路を変え、急流の勢いを弱めて氾濫を防いだ。信玄は盆地東部の笛吹川にも雁行堤を設け、盆地における「水」のコントロールに腐心した。
※5 穴太衆:近江を拠点とし、近世初頭に活躍した石垣建造の専門家集団。安土城ははじめ多くの城郭で石垣を築き、現存するものも多い。