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渋沢栄一から学ぶ次世代型CSRのヒント

幕末からグローバルに物事を見ていた渋沢が大切にしていたこととは?

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経済学部准教授 杉山 里枝

2017年2月10日更新

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バブル経済崩壊後、日本企業のあり方に大きな変化が求められています。グローバリゼーション、CSR(企業の社会的責任)、CSV(企業と社会との共通価値の創造)などの用語が飛び交うようになり、低迷する経済状況の下、各企業では経済的事業活動だけでなく世界の中での自社、社会の中での自社の立ち位置をも意識した活動が必要となりました。世界で、社会で、どのように立ち振る舞えば良いのか。多くの企業が頭を悩ませているのではないでしょうか。

特にCSRは自社の経済的利益に直結するというものではないため進め方が難しく、残念ながら各種団体への寄付活動や文化芸術活動の支援だけで終わってしまうということも多々あります。企業の強みを活かして社会と共通の価値を作るCSVに関しても、サービスや商品を開発しただけで終了してしまうケースも少なくありません。「果たしてこれで良いのか?」担当者は教科書的な、指針的なものを求めているはずです。

100年前の日本に、「思いつきでの慈善や名聞慈善は慈善事業として望ましいものではない」と指摘し、「いかにも道理正しく組織的に経済的に進歩拡張していくべきだ」と提言した人物がいます。1908年、中央慈善協会の発足式、発言者は渋沢栄一です。

※名聞=世間からの評判を意識すること、求めること

著書『論語と算盤』で知られ、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢ですが、社会事業家としての側面ももっていました。渋沢は1916年、76歳で経済界を引退するまでに、500を超える会社の設立や経営に携わりましたが、社会事業は引退後も関与し続け、1931年に91歳で亡くなるまでに教育分野も含めおよそ600もの団体・事業の設立や運営に尽力しました。

感化事業であれ、救済事業であれ経営の視点から見ていかなければいけない。渋沢は、社会事業にも企業経営合理性を結びつけて考えていたのです。そして最も大切にしていたのは「継続性」だと記録から読み取ることができます。渋沢が手掛けた社会事業については、100年を超えた今でも残っている事業が多々あり驚かれるかと思います。渋沢がこだわった「継続性」の視点は、次世代のCSR、CSVを考えていくうえで私たちにヒントを与えてくれるかもしれません。

1840年に武蔵国榛沢郡(現在の埼玉県深谷市)に生まれ、農家の息子でありながらも倒幕に燃えた渋沢。高崎城乗っ取りや横浜焼き討ちを計画するも直前で中止し、その後京都に向かった渋沢は、一橋慶喜(後の徳川慶喜)へ仕官します。そして慶喜の弟・昭武に付き添い幕末の1867年には渡仏。大政奉還に伴い帰国した後は大蔵省に入省しますが、1873年に退官し、実業界で活躍することになります。

ヒト・モノ・カネ・情報という経営の4資源の中でも情報を重要視していた渋沢は、日本国内を飛び回るだけでなく、20世紀に入り、すさまじい勢いで経済成長を遂げるアメリカに数度訪問し、そのノウハウを吸収してきます。日本だけなく世界を見つめ、「自分はどう生きるべきか」を考えていたのが渋沢ではないでしょうか。常に時流を感じ、臨機応変にグローバルに、地球単位で物事を見て行動していた。そしてアウトプットとして500超の企業と600余の社会事業に関わり、今の世の中に実績として残している。そんな渋沢から学ぶべきことは多いと思いませんか。

 

 

 

杉山 里枝

研究分野

日本経済史・経営史

論文

「今こそ学ぶべき渋沢栄一の経営理念」(2024/03/20)

「中京財界と渋沢栄一」(2023/07/01)

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