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明治・大正・昭和を生きた研究者秘話
國學院大學博物館の礎を築いた樋口清之

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研究開発推進機構教授 内川 隆志

2018年8月4日更新

樋口清之先生

樋口清之先生

 國學院大學博物館の館祖たる樋口清之先生は、明治42(1909)年、奈良県桜井市に生まれた。先祖は、織田長益(有楽斎)に発する旧家である。祖父宮部清吉郎広綱氏は維新後、奈良県政に携わると共に儒学、国学を学んだ学者で、父樋口清二氏は、京都帝国大学を卒業し、各地の師範学校等の校長を歴任した教育者だった。

 そのような環境で育った樋口先生は幼少の頃から自ずと学問に目覚め、とりわけ考古学に興味を抱くようになっていった。進学した畝傍中学校時代にその頭角を表し、既に大正15(1926)年頃には、『考古学雑誌』『人類学雑誌』などの学術誌に十数篇の論考を投稿し、昭和2(1927)年、鳥居龍蔵先生を慕って國學院大學に入学後は、考古学、人類学の勉学に勤しんだ。3年時には、中学時代を通じて奈良県各地で採集した考古遺物を基本に博物館の必要性を大学当局に訴えたことによって標本室を獲得し、公開に至ったのである。

 このように博物館施設の設立計画を俎上にあげ実践したのも、まだうら若き考古学徒であった樋口先生で、その強力な推進者として上代文化研究会長鳥居龍蔵先生をはじめ、中川徳治、丸茂武茂、福田耕次郎、雨宮祐、新倉借光、神林淳雄、水野久尚、三木文夫、森貞次郎、江藤千萬樹、長田実(以上敬称略)その他各方面からの支持者をあげることができる。同7年には、当時の国史研究室主任植木直一郎先生の助言によって「考古学資料室」と改名した。この年、樋口先生が卒業と同時に国史研究室助手に採用され、資料室が国史研究室の附属となり、考古学研究と一体となった組織として正式に根付くことになったのである。

考古学資料室にて昭和14(1929)年

考古学資料室にて−昭和14(1929)年

 戦時下、展示室の直下に天皇陛下の御真影があったことから千葉県曽谷貝塚の縄文人骨の展示ケースの存在が不敬であると取り沙汰され、昭和18年には当局より閉室の指示が下されるなど考古学自体の存在が危うい時期もあった。四方八方奔走し、ようやく本館2階から1階の一隅に移って考古学資料室の命脈を保ち、終戦直後のGHQの大学査察をクリアできたのも考古学資料室の存在があったことが樋口先生ご自身によって語られている。

 昭和20年には國學院大學教授となって、日本史、考古学概論、考古学特殊講義、文化人類学、自然人類学などを担当され、学問領域の広さと深い学識は多くの学生を魅了した。また、昭和32年には博物館学講座を開講し、多くの学芸員を輩出した業績も大きい。44年に及ぶ研究生活のなかで、300冊をこえる著書を刊行し、テレビ出演、講演活動も積極的にこなした。「樋口学」とも称される独自の日本文化論は、洽覧深識といえる知識と発想によって形づくられたものである。
 今、混迷する日本社会を立て直す指標として斬新な視点から日本文化を解き明かされた先生の功績を再評価する時期が迫っているような気がする。
 先生の足跡の一端は現在、博物館で開催中の企画展で示した。学報連載コラム「学問の道」(第9回)

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