『外見の修辞学 : 一九世紀末アメリカ文学と人の「見た目」を巡る諸言説』を著した、福井崇史・文学部准教授が研究しているのは、19世紀末の文学作品内で表象される人の「見た目」と、同時代に流通していた、人の「見た目」を巡る思想系だ。そうした思想に現れる、人の「見た目」と、性格や性質、階級性、そして「人種」性を結びつけようとする思考法は、現代社会でも、なお重要な問題の源泉であり続けている。
ヘヴィーメタルにスポーツと、多趣味な研究者の目に映る、「見た目」に振り回される世界の姿とは。
研究を始めたころ、こんなに深く「見た目」の問題を考えていくことになるとは、自分でも思っていませんでした。そもそも中高生のころに英語圏のヘヴィーメタルにハマって、大学で英文学科に進んだのがすべての始まりです。イギリスであればアイアン・メイデンやジューダス・プリースト、アメリカであればメタリカ、メガデス、スレイヤー、アンスラックス、テスタメント……そうしたバンドの歌詞から英語に興味を抱いていったんですね。
大学に進んで、面白いなと思ったのが、文学・文化・歴史を横断的に扱う授業で出てきた、19世紀の「骨相学」や「観相学」の話でした。人の「頭蓋」や「顔」から、その人に対するさまざまな価値判断を行う、なんていう「科学」が、19世紀半ばのイギリスやアメリカで盛り上がったんですね。その言説は、アメリカでは徐々に、そして明白に、「人種」を守備範囲に入れ始めて、「白人」「ネイティヴ・アメリカン」「黒人」などの「見た目」を、それぞれの知的能力や性格的特質と、「科学的」に結び付けられると主張したんです。結論を先取りすると、こうした考え方は、もちろん現代の科学は支持していません。しかし同時に、残っている当時の図版や、そこに込められているアイデアの無茶苦茶さは、私に強い衝撃をもたらしました。
私はそれ以降今日まで研究を進めてきて、19世紀であろうが21世紀であろうが、人の「見た目」の違いに、「見た目」以外の違い―「人種」性や民族性、階級性、あるいは知性―などを繋げようとする思考法は、完全に破綻していることを再確認しました。人の「見た目」に、色々な意味での「優劣」が現れている、なんていう考え方は、19世紀から現在に至るまでだけでも、破綻に次ぐ破綻を繰り返しているんです。でも、またすぐにちょっと違う形で、この考え方は姿を現してきます。「見た目」が違うということが意味しているのは、「見た目」が違うということ、ただそれだけ。それ以上でも、それ以下でもないんです。歴史を振り返ってみて、もうみんなそんなことは分かろうよ、というのが実感としてあります。
ただ、人間にとって視覚のもつチカラや意味があまりに強いこともあって、私たちがいつまでもそうした考え方を用いてしまっているのは事実です。ちょっと違う文脈ではありますが、「見た目」は重要だよ、というメッセージことを冠した新書が少し前にヒットしたことも、皆さんまだ記憶に新しいのではないでしょうか。私自身大好きな野球やラグビーといったスポーツを観ていても、「見た目」と「人種」や民族、といった問題は、「多様性」が叫ばれるようになってきた日本でも、つきまとってきますよね。
一方で、いま世間でよく言われるようになっているこの「多様性」という言葉に、違和感を抱いているのも事実です。最近、この言葉を都合のいいように使う人が多すぎるのではないか、と。「多様性」を持ち出せば、簡単に自分を安全な側に、「正義」の側に置くことが出来てしまうわけですが、使い手の側に、責任感をあまり感じないんです。
福井 崇史
研究分野
19世紀末アメリカ文学研究、批評理論
論文
「『不安』な国家への忠誠―“Pledge of Allegiance” が語る自由主義と全体主義の共通点―」(2023/11/15)
「可視化される『血』、不可視化される『色』:舞台の上の『まぬけのウィルソン』」(2019/07/15)