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城下町の意味は時代によって変化している?城下町の本質とは

歴史地理学の自由な探求 -後編-

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文学部史学科 准教授 川名 禎

2025年7月15日更新

 「城下町」は、商業都市。そうしたイメージを抱く人は多いはずだ。しかし城下町という概念の本質は、実はそうした都市性にないのではないかと、歴史地理学を専門とする川名禎・文学部史学科准教授はいう。そうではなく、城下町の本質は「労働力の編成」にあるのではないか、と──。

 歴史地理学は自由だ、と笑顔で語る川名准教授。その自由さについても、このインタビュー後編では語ってもらった。前編では「教室における学生たちの座席の位置」が議論の対象になりうるという話だったが、さらに後編では、意外なあの遊技の名前も飛び出す。

 

 皆さんは、城下町というと、どのようなイメージを抱かれるでしょうか。町人地だけを指すとお考えの方もいれば、城を除いた武家地や寺や町すべてを指すと考える方、いやそうではなく、城もすべてひっくるめて城下町なのだと思う方など、さまざまにいらっしゃることと思います。

 実は江戸期には、主に町人地だけを指して城下町といっていたのですが、現在では城もすべてを含めて城下町なのだと考えられるようになってきています。城もあわせて城下町だというのは、字義から考えておかしいのではないかと感じられる方もいるかもしれませんが、実際にいま、城下町という言葉から多くの人々が抱くイメージは、城も含めた一帯の領域=城下町というものなのです。

 これはつまり、現代では「都市」として城下町を捉えるようになってきている、ということです。城下町とは都市である。現代人の城下町をめぐる認識は、一言でいえばこのようなものになります。

 しかし城下町の本来的な意味合いは、こうした「都市」としての領域を指すものではなく町人地のみを指していたということは、先ほど申し上げた通りです。つまり、城下町という言葉の意味が、変わってきているわけです。このようなことから私は、城下町という概念を、歴史地理学的視点において根本から見直す必要があるのではないかと考えているんですね。

 ひとつ端的に申し上げれば、このような城下町概念の変化をもたらした背景としては、明治21(1888)年公布の市制・町村制の導入が大きいと私は見ています。そして、都市として城下町を考えるという方向性のもとに、たとえば楽市・楽座といったような、その商業的な機能を重視するような研究も重ねられてきました。

 都市としての観点から見る城下町研究の意義もたしかにあったわけですが、しかしそれはやはり、近代以降の城下町観を近世以前にまで敷衍させてしまっているという側面が、どうしてもある。同様に、一般的な語の使用としても、都市的な意味合いにおいて城下町という言葉が用いられるようになってきました。

 では、こうした近代的な城下町の概念を歴史地理学的な視点から、戦国期まで遡りつつ、近世城下町のありようを解きほぐし、捉え直すとどうなるか。現在研究を進めている途中ではありますが、城下町の本質は「労働力の編成」にあるのではないか、と私は見ています。

 たとえば、近世の三河国刈谷という地域を見てみると、比較的小規模の城下町ではありましたが、非常にさまざまな役が住民に課せられていたことがわかります。城普請や掃除、あるいは街道や宿場における人馬の提供などにかんしては、皆さんもイメージしやすいかと思います。他にもたとえば、むかごや渋柿、ゆりの根を採ってくるなどといった、食物や小動物などを上納する「御用」などもありました。面白いところでは、藩主の姫がほしいといったからと、「くつわ虫」を上納したという例もあるのです(笑)。

 概して、城自体、そして藩主や家臣たちの生活を成り立たせるためには、大規模な工事のときなどのみではなく、日常的・恒常的に編成できる労働力というものを、城の周囲に確保しておかなければいけないわけですね。このように城下町は、現在のようにその本質として都市性を見るものではなく、本来的には労働力の編成を本義とするものではないかと、歴史地理学の観点から研究を進めているところです。

 こうしてお話ししていると改めて、歴史地理学という学問の自由さのことを思います。さほど研究者の数が多くない、マイナーなジャンルだからこその自由さ……という側面も否定できないのですが(笑)、ともあれ、自由に探究を進めることができる学問なのだと、日々実感しています。

 実は、私は最初から、歴史地理学の道にストレートに入ってきたわけではありませんでした。学部生の時代に卒業論文で扱ったのは、江戸の近世遺跡から多く出土している「泥面子(どろめんこ)」という、素焼きの土製品です。私が幼少期を過ごした千葉県の北東部でも、主に畑から出土しているもので、たとえば友人の家に遊びに行くと、外で土器を拾いにいこうよと誘われる。なんだろうと思ってついていくと──後にわかったことではありますが──それが土器ではなく、泥面子だったというわけです。

 泥面子は長らく考古学の対象とされてきたのですが、私が興味を抱いたのは、それがなぜ畑から出土しているのかということで、なかなか考古学の範疇では扱いづらい問いでした。そこから関心を寄せていったのが歴史地理学という、私の問いもその懐で受け止めてくれる自由さをもつ学問領域でした。ちなみに結論を申し上げれば、肥料に混入し輸送・投下されたことで現在のような泥面子の分布になったのではないかと、私は考えております。

 学生にも、歴史地理学は自由な学問だから、ぜひ自由な発想をもってほしいと伝えています。そういえば以前、レポートでダーツの的について詳しく書いてきた人がいました。たしかに、ダーツが刺さる場所によってその意味合いが異なるわけですから、歴史地理学の対象だといえるかもしれません。正直、ダーツについてまったく知らない身としては、読みながらなかなかに困惑したのですが……(笑)。しかし、それぐらい自由な発想を喚起させてくれるところが、歴史地理学の醍醐味だと思っているのです。

 

 

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川名 禎

研究分野

文化的景観、絵図、景観、城下町、近世都市、歴史地理学

論文

「結城氏新法度」にみる戦国期の結城について(2023/06/30)

<書評>平井松午編『近泄城下絵図の景観分析・GIS分析』(2020/05/31)

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