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フィギュアスケート部を復活させ、インカレを目指しチャレンジを続ける

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人間開発学部4年 柴田 美穂 さん

2025年4月21日更新

 フィギュアスケートと出会ってから、さまざまな困難を乗り越えて練習に打ち込んできた柴田美穂さん(健体4)。國學院大學では休部状態だったフィギュアスケート部を復活させ、全国大会でも見事な結果を残してきた。華やかに見えるフィギュアスケートの裏側にある苦しみなども語ってくれつつ、微かな迷いもなく挑戦を続ける姿が印象的だ。

 

小学5年生で始めて、めきめき上達

 柴田さんがフィギュアスケートと出会ったのは5歳の頃。テレビで観た浅田真央さんの演技に心を奪われた。小学5年生で教室に入り、それからはもう夢中。教室はテストを受けて昇級するシステムで飛び級はないのだが、柴田さんは各クラスの先生に認められ、テストなしでどんどん昇級していく。いまでも指導を受けているコーチには、最初の段階で、大会に出たいのか趣味なのか、目指すところを聞かれたという。柴田さんとしては、もちろん大会を目指したい。しかし、ことは簡単には運ばない。

 「大会を目指すなら、選手としての練習量が必要になってきます。ですが、母が、中学生になれば勉強や部活で忙しくなるから趣味でいいのではとの考えだったので、とにかく大会に出て母に認められたい一心で自主練習していました。コーチの説得もあり、個人レッスンも受けられるようになった時には本当にうれしかったです」

 中学では、土日に練習のなかった水泳部に入り、泳げない冬場も陸上トレーニングでみっちり基礎体力を養った。3年生になるとコーチのチームでグループレッスンに参加。高校では週6日のグループレッスンに加え自主練習で徹底して滑り込み、スケートで使う筋肉や柔軟性を鍛えた。

猛練習で使い込んだスケート靴。身体の一部として滑るのだそうだが、見た目よりかなり重量があり、フィギュアスケートの過酷さがうかがえる。

柴田さんの原動力は、諦めない意志

 高校時代はコロナ禍で大会出場は叶わず、大学で初めて大会に挑戦することになる。しかし、國學院大學にフィギュアスケート部はなかった。部活動でなくては、私大戦には出場できても、インカレ(全日本学生選手権)など公式の大会には出られない。なんとかフィギュアスケート部を作ろうと決意した柴田さんは、各所に問い合わせを行うなかで、國學院大學に他大学の練習に参加している先輩がいることを知る。この先輩との出会いが、状況を大きく動かした。先輩から、國學院大學のフィギュアスケート部は休部状態なのだと知らされる。ゼロから立ち上げるのと、休部を取り消すのでは、手続きの困難さは雲泥の差。すでに顧問の先生もいる。SNSでメンバー募集をしたところ、経験者が3人集まり、令和4(2022)年にフィギュアスケート部が復活。ここで一気に道が拓け、10月の東日本インカレに出場した。3級部門で予選4位に入り、1月に北海道で開催された全国大会に進み、12人中5位入賞。2年生になると、東日本インカレで1位となり、全国大会では難度を上げたチャレンジのプログラムで4位に入賞。翌月の2月に開催された関東インカレでは優勝に輝く。素晴らしい成績だ。

2分半にすべてをかける試合本番。力強いスケーティングと高いジャンプが柴田さんの最大の武器だ。

 氷上へ、たった一人で滑り出していく瞬間は、どんな思いなのだろう。

 「緊張と不安はありますが、コーチが背中を3回たたくルーティンがあって、それがスイッチ。3回目にたたかれた勢いのままスタート地点に向かいます。これからの2分半は、この広いリンクを独り占めできる。私一人を見てもらえると、わくわくします」

 順風満帆な競技生活のようだが、日々の様子を聞けば過酷の一言だ。運動量が多すぎて腰椎分離症になり、練習ができない時期もあった。

 「フィギュアスケートは、自分の身体一つで表現するもの。身体をどうコントロールするか、指先や顔の向き、表情ひとつでまったく違う演技になってしまいます。技の練習も大変ですが、私は表現力を究めていきたい。でも、どんなにがんばっていても成長を感じられない時期があり、あんなにも美しいスポーツなのに、私はこんなにボロボロだと悲しくなることもあります。ですが、スケーターはどんなに落ち込んでいても、滑るのが怖くても、とにかく毎日氷に乗らなければ駄目なんです。一度でも離れてしまったら、氷の感覚、滑る感覚を忘れてしまい、もうスケートができなくなる。」

 コーチのアドバイスや練習ノートから解決の糸口が見えてくるのだそうだが、落ち込んでいる時にリンクに向かうのはどんなにつらいことだろう。柴田さんは「負けず嫌いだから」と笑うが、驚くほどの純度でフィギュアスケートに向き合っている。

 「私自身がやりたくてやっていることなので。母はいまでも、できないならやめればと言います(笑)。小さな時から、あなたはどうしたいのかと常に問われていたように思います。自分がやりたいなら、どう行動するか。母の態度は一貫していて、言葉は厳しいのですが、朝練のために4時起きで家を出る私を駅まで送ってくれますし、見守り支えてくれていると感じます」

 

二つの夢に向かって、いまできることを

 スケートと同様、何事にも手を抜くことのできない柴田さんは、課題のレポートなどにも納得がいくまで時間をかける。睡眠を十分にとれない日もあるのだろうが、毎朝6時から1時間半滑り、リンクのある東伏見(西東京市)から1時間以上かけて大学へ通う。教職課程もあり大忙しだ。

 そんな努力の毎日なのだが、無情にも、昨年の東日本インカレが教育実習の日程と重なり、出場を断念。中学高校の保健体育の教諭になるという、もう一つの夢のために気持ちを切り替え、今年あらたに挑戦する4級での全国大会出場を目指す。気持ちを引きずらず、いまできることに集中することも、フィギュアスケートで培われた強さなのだろう。スケートは大学時代までと、一旦区切りをつけると決めている。そうすることで自分を追い込むのだ。限られた時間を密度濃く生かし切り、最後の試合の2分半では、きっと見事な演技を見せてくれることだろう。

毎日、寝る暇を惜しんでフィギュアスケートの練習と学業に励む。諦めない意志で前に向かう姿は、清々しく美しい。

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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