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コロナ禍は渋谷の「個性」を希薄化させた
渋谷から、どうして溜まる・ぼんやりする無償の場所は減っているのか? ~Part1~

空中でつながる渋谷。人がストリートへと降りなくなっている!? 

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文学部 教授 飯倉 義之

2024年11月18日更新

 新型コロナウイルスによって、私たちの生活は「コロナ禍」と呼ばれる局面を迎えた。ニューノーマルといった言葉が浸透し、生活は一変。新しい価値観やライフスタイル、規律が生まれたことで、生活者の意識も様変わりした。

 新型コロナ感染症が「5類」に移行したことで、「コロナ禍」は、ひとまず過去のものになった。しかし、約3年にわたる特異な期間は、多くのものに変化をもたらした。とりわけ渋谷は、その変化を内側からも外側からも体感できる場所かもしれない。

 コロナ禍によって加速した渋谷の変化、そして行き交う人々の機微の揺れ。都市の民俗学に精通する飯倉義之・文学部教授に話をうかがった。

 

 「コロナ禍は、ソーシャルディスタンスをはじめ、日本社会にさまざまなルールを設けました。私たちは、こうしたルールを受け入れ、新たなルールを守って動くようになりました。コロナ禍によって生じた“ルールを守る”という意識は、私たちの心に強く働きかけたのではないかと思います」

 コロナ禍が人々の内面にどんな影響をもたらしたのかについて問うと、文学部教授・飯倉義之先生は、そう答える。

 「もともと日本社会は、“迷惑をかけない”“空気を読む”といった暗黙の了解が少なくない社会です。従わないと白眼視されることも珍しくなく、圧力を感じやすい社会とも言えます。こうした素地がある中で、コロナ禍によるルールを強く推奨する社会を体験した私たちは、世の中に迷惑をかけないために、より一層、不文律とも言えるルールに自ら従うようになったと感じます」

 こうした心理は、キャンパスに通う学生たちにも表れているという。

 「決まりや締め切りを重視する学生が増えました。それ自体は良いことなのですが、コロナ禍以前はもっとアバウトな学生が多かった(笑)。決められたことにはきちんと従うという思考が内面化されたとも言えます」

 コロナ禍を経て、私たちはコントロールされることに対して、「慣れてしまった」かもしれない。一例を挙げれば渋谷のハロウィーン。コロナ前は、毎回、問題提起が起こるほどのパニックを生み出していたが、アフターコロナとなった昨年はさほど混乱を生むこともなく無事に終了した。長谷部渋谷区長が、「比較的静かなハロウィーン。渋谷にとっては静かなハロウィーンだった」と振り返るほどだった。

 日本は欧米と比べると、契約社会ではない。欧米は不文律を良しとせず、契約書に書かれていることを重要視する。ルールも同様で、条例や法律に記載されているか否かが、そのまま社会の秩序を作り出す。対して、日本は“空気を読む”に代表される、皆が(なんとなく)価値観を共有し合う社会だ。飯倉先生が指摘する「内面化された意識」は、こうした日本人の特徴とシンクロし、今に至っていると話す。

 

地上に降りない空中回廊でつながる渋谷中心部

 現在、渋谷は2027年まで続くと言われる「100年に一度」の再開発が進められている。人々の内面が中身だとすれば、渋谷の街は「器」だろう。では、「器」にはどんな変化が起きたのか?

 「渋谷は大開発が進められていますが、その理由の一つに災害対策があります。この点を、まずは踏まえなければいけません。災害時に人々が一か所に集中することは避けなければいけない。街を強靱化して、人の流れを建物から建物へとつなぐように分散させる――そうした特徴が渋谷の開発にはあるんですね」

 実際、渋谷は開発と並行する形で、災害対策にも力を入れている。渋谷の地下に広がる雨水貯留施設は、平成23(2011)年2月の工事着手から10年近い歳月を経て、令和2(2020)年8月に完了した。また、「渋谷ヒカリエ」は、災害時に発生する帰宅困難者を一時的に収容できる約5500m²のスペースを確保する商業施設でもある。

 こうした対策を講じながら、今年7月8日には渋谷駅東口エリアに大型複合施設「渋谷アクシュ(SHIBUYA AXSH)」が、7月26日には桜丘エリアに大型複合施設「渋谷サクラステージ(Shibuya Sakura Stage)」が開業した。

 2つの大型複合施設が誕生したことで、現在の渋谷は青山通り、渋谷クロスタワー方面にある「渋谷アクシュ」から「渋谷ヒカリエ」を抜け、駅と直結する「渋谷スクランブルスクエア」を介し、明治通り沿いにある「渋谷ストリーム」まで。さらには、桜丘方面にある「渋谷サクラステージ」、中央街に位置する「渋谷フクラス」、そして道玄坂の「渋谷マークシティ」にもアクセスできるようになった。これらは歩道橋でつながっているため、一度も地上に降りることなく周遊することができる。さながら、超巨大空中回廊である。

「渋谷アクシュ」から「渋谷ヒカリエ」へとつながる歩道橋

 「人の流れを統制しているため、これも一種のコントロールです。結果的に、渋谷駅を中心とした一大エリアが屋内化し、屋外にいるはずなのにドームの中にいるような感覚になっている。屋内というのは、コントロールされた空間です。再開発が進めば進むほど、渋谷がコントロールされた街になっている感は否めません」

 試しに、「渋谷マークシティ」から「渋谷アクシュ」まで歩いてみると、飯倉先生が話すように巨大な屋内空間を歩いているような感覚に陥る。面白いのは、階層の感覚がなくなるという点だ。駅構内から「渋谷ヒカリエ」に抜けると“3F”の表示を確認できるのだが、そのまま同じフロアを「渋谷アクシュ」方面に向かい、 青山通りに出るとどういうわけか“地上1F”に到着している。

 階段もエスカレーターも使っていないのに、階層が変わっている――。これこそが、渋谷が「谷」である証左であり、すり鉢状の地形がもたらす珍百景とも言える。同じフロアを歩いていても、各大型複合施設のフロアが異なる「世にも奇妙な空中回廊」。裏を返せば、谷である渋谷は新宿駅や東京駅のように、地下に広がるような大規模な商業施設を作ることは適さない。スクランブル交差点付近では地下1Fでも、道玄坂の中腹まで行けば地下3Fになってしまうからだ。

 駅を中心に、「渋谷アクシュ」~「渋谷ヒカリエ」~「渋谷スクランブルスクエア」~「渋谷ストリーム」~「渋谷サクラステージ」~「渋谷フクラス」~「渋谷マークシティ」と広がる空中回廊は、渋谷という地形が生み出した、新しいランドマークと言ってもいいかもしれない。

いずれはスクランブル交差点のように、渋谷駅を中心に広がる奇怪な空中回廊を目当てに、多数の観光客が訪れるかも

渋谷のストリートカルチャーが希薄化していく

 だが、こうした変化が、「かつての“渋谷らしさ”を失わせているとも言える」と飯倉先生は付言する。

 「渋谷の街は、“公園通り”“センター街”“文化村通り”“ファイヤー通り”といった名前が示すように、ストリートの街として発展してきました。こうした通りに百貨店や個性的なお店が集い、モザイク状にカルチャーが発信されていったわけですね。しかし、現在の渋谷は、駅周辺がドーム化され、そこだけで完結できる空間が広がっている。地上3階の空間を行き来しているわけですから、ストリートに下りる機会も減少します」

 それだけではない。

 「ストリートは、ある意味ではコントロールが及ばない場所でもあります。誰が居てもいいし、誰もが使えるところです。だからこそ、コギャル文化をはじめとしたストリート文化が、渋谷ではいくつも生まれてきました。しかし、屋内(=企業の私有地)になれば、管理者がいますから、コントロール下に置かれている場所でのふるまいという内省的な意識も強くなります。コントロールできない人やルールを守れない人は排除されてしまう。現在の渋谷は、内面的にも外面的にもコントロールの力が働く。ストリートの街として発展してきた渋谷とは、対照的な街の姿とも言えるのです」

渋谷のカルチャーは、写真の「公園通り」をはじめ、ストリートから派生していったものが多い

 空間を見出し、価値を作り、秩序を守る。その秩序からはみ出す者がいれば、空間から追い出していくのは仕方のないことだろう。

 前回、『なぜ渋谷に「聖地巡礼」は生まれないのか!? 3つの視点から考える、聖地化しない渋谷の背景』 と題して飯倉先生に話を伺った。その際、

 「口承文学の観点から考えたとき、盛り場は、もともとこの世とあの世の境です。(お寺の)門前町が盛り場として形成されるのは、そういった背景があるからです。寺の前の火除地などは、防火のため人が住んではいけないのですが、仮設の小屋掛けをして商売や芸能を営むことは許可されていました。仮設なので次々と入れ替わり、さまざまな人が往来するようになる。さらには、門前ということもあって、あの世にも開かれた空間になっていく。渋谷は、365日24時間、常に市が開かれているような盛り場的な街です。市という空間は、山姥や山男なども来ると言われていましたから、繁華街に変わった人や怖い人、さまざまな人が集うのは不思議ではない」

と、飯倉先生は概説した。空間を見出し、価値を作り、秩序を守る――。この考え方は、昔も今もさほど変わりはないだろう。しかし、内側からも外側からもコントロールする(される)ことに慣れてしまった今、はみ出している人さえも内包するはずだった盛り場の在り方は変わってきている。

 かつては許容できていたものが許容できない。だからだろうか。昨今、インバウンドが観光地や街中(ストリート)でルールを守らないことがニュースとしてクローズアップされるが、そうした行為に対して、私たちは必要以上に目くじらを立ててしまう。「自分たちはルールを守っているのに」。内面化された意識の反動は、さまざまな形で顕在化しているのだ。

 

(後編へ続く)

取材・文:我妻弘崇 撮影:久保田光一 編集:小坂朗(アジョンス・ドゥ・原生林) 企画制作:國學院大學
※写真の転載をお断りいたします。

飯倉 義之

研究分野

口承文芸学、民俗学、現代民俗

論文

柳田國男と/民俗学と写真―方法論の不在について―(2023/08/05)

オカルトを買っておうちに帰ろう : 「コンビニオカルト本」の私的観察史(2023/04/01)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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