国学者・平田篤胤の思想を宗教学から考えるということと、幼い頃に夏の田舎で味わった不可思議な感覚が、遠藤潤・神道文化学部教授のなかでは分かちがたく結びついているという。そのキーワードは、“死生観”だ。
宗教学および日本宗教史を専門とする遠藤教授への前後編のインタビューは、まず自身の原体験からはじまった。以前に若き日の乱読ぶり(大学生におすすめしたい 遠藤教授の1冊 (前編))について取材したときと同様、優しい人柄がにじみ出る、実直な語りがなんとも魅力的。引き込まれるうちに私たちも、篤胤のビジョンへと近づいていくことだろう。
専門は宗教学、特にそのなかでも、日本の宗教史を扱っています。私が把握したいと思っているのは、江戸の後期から近代、そして現代へと連なる宗教史であり、その起点としての国学者・平田篤胤をめぐる研究に取り組みながら、気づけば長い年月が流れていました。
事のはじまりは、幼少期、母方の実家である田舎で過ごした夏の体験でした。先祖祭祀に熱心な土地で、重ねて祖母が非常に信心深い人だったこともあり、ふだん首都圏のベッドタウンに暮らす私が学校などで体験する日々とはまったく異なる一カ月を、毎年過ごしていたのです。それこそお盆も含めて、ご先祖さまの存在をとても身近なものとして受け止める日々というものは、私にとって、とても不思議な時間なのでした。
その後、私が10歳くらいの頃に祖父が亡くなり、幼心ながらに死後の世界とはどういうものなのだろうと興味を抱くようになって、やがて高校生のときに宗教学という学問の存在を知るに至ります。その時期に決定的な衝撃を受けたのが、1980年代当時に一世を風靡していた宗教学者・中沢新一さんの著作『チベットのモーツァルト』(せりか書房、1983年)でした。信仰の現場に出かけていく学問があるのか、と。このようにいろいろな刺激を受けながら、大学で宗教学を学ぶことになっていきます。
死後の世界というものをなんらかのかたちでとらえたい、しかも私自身がそれを信じる/信じないということにとらわれないレベルで考えることができればと思い、卒業論文では空海の死生観について取り組みました。ただ、当時の研究室の助手の方に「空海をやるならばサンスクリット語も読めなきゃ」といわれ、授業もとったのですが難しくてあっという間に挫折(笑)。卒論だけは空海のテキストの現代語訳を用いてなんとか書きましたが、修士課程に進むなかで、何か新しいテーマを見つけなければと右往左往していました。
やがて見つけたテーマは、神葬祭でした。神道の葬儀のことですね。葬儀というと、一般に伝統的なものというイメージが強く、実際に伝統的な葬儀について民俗学では膨大な研究の蓄積があります。ただ、私は社会の近代化のなかで変化してきた側面に興味があり、そこに焦点を当てるために神葬祭というテーマを考えました。といっても、当時の指導教員の示唆があってのことなんですが。
実際に江戸の後半から明治期にかけて、仏教によるものから神道式の葬儀へと切り替えようとする人たちがいて、それまで寺請制を軸に制度化されていた慣習のなかでトラブルが発生していることが、記録に残されています。そうした歴史や先行研究についてまとめたのが、修士論文でした。
ただ、神葬祭について調べるだけで精一杯で、その先、というより本来やりたかった死生観といったものになかなかたどり着けません(笑)。修士論文の延長線上で神道の死生観を考えるにはどうすればいいだろう、どこかに拠り所はないだろうか……と模索していたときに行き着いたのが、国学者・平田篤胤でした。篤胤は独特の、そしてまとまった死生観を書き記している人であり、また同時にその門下として学んだ人のなかには神職も多くいました。ここを考えていけば、近世から近代、やがて現代へと変化しながら連なる死生観というものを浮かび上がらせることができるのではないか……そう思ったわけなのです。
さて、ここで篤胤の死生観についてお伝えするには、その前提としての篤胤の学問の姿勢をご紹介しなければならないでしょう。篤胤が大いに影響を受けるとともにそこから独自の思想を生み出していく素地となったのが、本居宣長の学問でした。
篤胤は、宣長が逝去した十年後である享和3(1803)年に本居宣長の著書に触れ、一気にのめり込んでいきます。やがて文化10(1813)年、妻を亡くした翌年という時期に、初の著書である平田篤胤『霊能真柱』 (たまのみはしら)文化10年刊(『新修平田篤胤全集』第7巻、名著出版、1977年、所収)を出版します。
篤胤は宣長から学びながらも、それだけでは納得できずに自らの学問を打ち立てた、といっていいでしょう。神々の世界を考えるうえで宣長が重視するのは『古事記』であり、その禁欲的なまでに厳密な注釈書である『古事記伝』は、後進の学者たちにも多大な影響を与えています。宣長の弟子である服部中庸の『三大考』は、宣長の論を踏まえながら、天・知・黄泉を図示し、人が死後に赴くのは黄泉国である、と論じている著述です。宣長はこの著述を許容しました。
篤胤もまた『霊能真柱』を著すにあたって、この『三大考』を踏まえています。しかし、死者の霊魂が穢れた黄泉国に赴くということ、さらには『古事記』のみを根拠に神代や世界を論じることに、篤胤は納得できなかった。もっと複数の文献を比較することで、神々の世界や、人の死後の世界をさらに明らかに、そして詳らかにしようとしたのです。具体的にいえば、『古事記』を『日本書紀』や祝詞といった他の古典的テクストと比較し、論理的な整合性がとれていくように引用を重ねた、独自の「古史」というものを編んでいきました。そうしたプロセスを経て、篤胤は人が死後に向かうのは「幽世(かくりよ)」である、と結論づけるのです。
ここまででもご理解いただけるように、国学者のなかでも宗教性の強い議論を展開する篤胤は、国学の専門家の方のみならず、私のような宗教学の人間もアプローチしうる世界観をもっています。インタビューの後編では、いま触れた「幽世」をめぐる篤胤の興味深いロジック、そしてそうした死生観にかんする洋学の影響なども含め、より詳細にお話ししてみたいと思います。
遠藤 潤
研究分野
宗教学、日本宗教史
論文
日本社会における神と先祖 : 19世紀の国学を焦点として(2003/03/25)
平田篤胤『仙境異聞』の編成過程 : 〈語り〉と書物のあいだ(2019/07/)