人は死んだら黄泉国へ向かう。『古事記』を基本にしたこうした考え方に、国学者・平田篤胤は洋学を含めた多種多様な知見を編み合わせ、そのなかで紡ぎあげた独特のロジックを用いて、否を突きつけた。人は死後、別の世界へいくのではない。私たちの“見えない”世界に、いまも隣り合って存在しているのだ、と。
遠藤潤・神道文化学部教授へのインタビュー後編は、いよいよ篤胤、そして家塾「気吹舎(いぶきのや)」の門下生たちの思考へと分け入っていくことになる。その独自の合理性を考えることは、現代人の私たちにとっても、あまりに興味深いものだ。遠藤教授がほぼ四半世紀にわたって、彼らの理路を追いかけつづけるほどに。
インタビューの前編で、本居宣長から連なる世界観だけに満足できず、平田篤胤が独自の道を歩んでいったことについて触れました。その流れを、もうすこし詳細に振り返ってみたいと思います。
神々の世界を追究するにしろ、そのうえで死生観を語るにしろ、宣長がとにかく重視したのは『古事記』です。その宣長による『古事記伝』の成果に依拠して、当時流入してきていた洋学、特にヨーロッパ由来の天文学と、古事記に記されている世界観を照合していったのが、服部中庸でした。西洋では太陽・地球・月……といった天体が科学的に観測されており、ではそれは『古事記』においてはどの記述に当たるのだろう、といったことをつき合わせていったのが中庸であり、その著書『三大考』なのですね。
篤胤は、宣長に多大な影響を受け、さらには中庸の『三大考』にも大変な刺激を受けていた。しかし同時にどこか釈然としないというか、納得しかねる記述も散見されたわけです。そうした疑問点を乗り越えるため、キャリアの最初期に書いたのが平田篤胤著『霊能真柱』(たまのみはしら)文化10年刊(『新修平田篤胤全集』第7巻、名著出版、1977年、所収)なのでした。洋学の知見のみならず、日本書紀や祝詞といった多様な、そして複数のテクストを参照し、論理的な整合性を追い求めていったわけですね。
『霊能真柱』は篤胤の思考の出発点ではあるのですが、やがて篤胤自身がそれに満足できなくなっていくという流れがありまして、より世界全体、歴史全体へと議論を広げていきます。そのプロセスを考えるうえでも、インタビュー前編でも話題にしていた死生観について、より突っ込んだ観点で見てみたいと思います。
宣長がその議論を依拠する『古事記』によれば、人は死んだら黄泉へ行き、穢れた存在となります。中庸はこの考えを、西洋の天文学を踏まえつつ再考し、黄泉国というのは宇宙における月にあたるものである、と論じます。いずれにしても死者は、地球の現実とは別の世界に移動しているわけですね。
篤胤は、こうした考え方を乗り越えようとします。死者は、私たちと隣り合う、この世から見えない世界=「幽世(かくりよ)」に存在している、というのですね。まるで私の幼少期の体験も含め、日本で多くの人がお盆に先祖の存在を身近に感じるようなもので、見えないけれども常にそこにいるのだ、というのが篤胤のビジョンであるわけです。
篤胤は複数のテクストを参考にしたという話をインタビュー前編でしましたが、そこで汲み上げていった知見というのは、『古事記』や『日本書紀』、祝詞や洋学のみならず、民間に息づいている死生観などもあった。こうして篤胤は、よりスケールの大きな議論を展開していくようになるのです。
こうした、見える世界がすべてではない、見えない世界も存在するのだという”見える/見えない”をめぐる論点というものは、さまざまな面白さを含んでいると私は感じます。
ひとつは、科学と宗教をめぐる関係です。実は篤胤がこうした論を立てていくのと同じ時代、つまりは近世から、後の近代にかけて、仏教でも護法論というものが展開していました。これは、天文学を含めヨーロッパの学問が受容されていくなかで、仏教の世界観を擁護するというものです。視実二元論といって、西洋の天文学が示す世界像は見える世界だけれど、仏教が伝統的に認めてきた世界像は実体の世界だというわけです。たとえば西方浄土といっても、現に西洋人は既に実際に地球をグルッとまわってきていて、西方浄土の存在はその途中のどこでも視認されていないわけですが、伝統的な世界観をまもろうとするときに、その真理は“見えない”のだというロジックが喚起されていくのです。篤胤が死後の世界を俎上に載せる場合にも、同じ「原理」でこうした“見えなさ”をあくまで科学的に、ロジカルに規定しようとしている点がまた興味深いわけですね。
“見える/見えない”をめぐる論点を現代まで敷衍(ふえん)していくと、たとえば心霊写真という現象の構造的な面白さも見えてきます。霊魂というものがあると心から信じているならば、何も、霊魂は目に見えなくてもいいわけです。しかし心霊写真というのは、「ここに写っているのが証拠だ」と──目に見えるから存在するのだ、という議論をわざわざ展開するわけですね。見えるものは科学的に存在するのだ、と。欧米の思想史でも指摘されているように、近代に特徴的なあり方のひとつだと思います。
他方で、霊魂のような日常経験を超えた存在についての語り=ナラティブを共有する人たち、集団というものの存在にも注目しています。具体的には、篤胤の家塾である気吹舎をはじめ、そのナラティブの集団的な広がりに関心を抱いています。それは宗教的でありつつ、きちんと理論的に突き詰めようとする姿勢を忘れない人々の集合体だったといえるかもしれません。
こんなエピソードがあります。篤胤の死後、その養子であり気吹舎の後継者となった銕胤(かねたね)のもとへ、仙人に会った紀州(いまの和歌山)の嶋田幸安という人間がアクセスしてきます。この時期は、かつて篤胤が仙人に会ったという少年・寅吉から聞き書きし、後に平田篤胤著『仙境異聞』安政4年(『新修平田篤胤全集』第9巻、名著出版、1976年、所収)と題される書物の編纂時期にもあたっており、銕胤たちも当初は嶋田の語りに興味を抱いている。ただ、嶋田は気吹舎の運営に干渉しようとしてきたり、ちょうどペリー来航という時期でもあって嶋田は対外関係に関しても予言めいたことも発言したりするようになった。
すると気吹舎の側では、門人たちの広いネットワークがありますから、それなりに最新かつ確からしい外交情報も入ってきており、嶋田のもたらす情報をそれらと照らし合わせることで嶋田に疑いの目を向けるようになっていきます。一方で、仙界に関する正しい情報を示すもの、いわば気吹舎の正典としての『仙境異聞』の編纂が門人への公開を目指して進められていく。
篤胤流の、論理だった学問のありようが、ここでも貫かれているんですね。現代の合理的な考えの人からみれば気吹舎の教学は荒唐無稽に見えるかもしれないですが、しかし彼らとて怪異すべてを信じているわけでもなく、調べも重ね、きちんと自分たちなりの合理性にしたがって評価・判断をしていく人たちであるのです。
私が近年興味を抱いているテーマのひとつが、篤胤がキャリアの後期に傾注していた“暦”という問題です。なぜ暦だったのかといえば、日本に神々の時代が現実として存在していたのならば、その頃からきちんとした暦もまた存在していただろう、という議論なのですね。歴史をイマジネーションに頼るのではなく、とにかくリアルに突き詰めていこうとする篤胤の姿勢が、よく表れていると思います。
篤胤も気吹舎の人々も、狂信的でも妄信的でもなく、独特のロジックを持っている。一方で、そのロジックが本当に妥当であるかどうかは、ナラティブを共有している内部においてだけではなく、外部からも考える必要がありますし、内外を行き来する宗教学という方法を用いる意味もそこにあります。私もまた、なかば疑いながらその論理に乗っかり、信じながらも疑いつつ、彼らの論理を追いかけていきたいと考えているところです。
遠藤 潤
研究分野
宗教学、日本宗教史
論文
日本社会における神と先祖 : 19世紀の国学を焦点として(2003/03/25)
平田篤胤『仙境異聞』の編成過程 : 〈語り〉と書物のあいだ(2019/07/)