近くて遠い? 遠くて近い? そんな親の気持ちや大学生の子どもの気持ちを考えます。
国民の「期待」を背に
たくさんの感動を残して、パリ2024オリンピック・パラリンピックの幕は閉じました。とりわけ日本の選手団は、国民の「期待」を背にして、がんばってくれました。
どの選手も、自分たちを後押ししてくれた支援への感謝の言葉を口にしました。
それは、欧米風の「(外から)つくる」のではなく、「(自ら)なる」子どもを育てようとした我が国古来の「修理固成(つくろひかためなせ)」の子育てに起因するといってよい、と思われます。
「期待のエール」を
それでは、國學院大學の「告諭」にある「本ヲ立ツル」という日本の伝統文化に基づいた神道精神を基礎とする人育ての観点から、私たちが学ぶべき教訓とは何でしょう。
それは、「叱責」よりも「期待」という厳しさを、ということです。
教育の現場でも、「子どもに寄り添う教育」が叫ばれています。実は、その際の「寄り添う」ためのコモディティ(根幹の交換資源)が、子どもへの「期待のエール」なのです。
具体的には、「良いとこ見つけ」、「拍手の種さがし」、「握手作戦」、「腕相撲大作戦」、「愛(合い)言葉」、「友膳(陰膳)」、「増やす言葉・減らす言葉・禁止する言葉」などの学級づくりの教育実践です。
また、「カウンセリングマインド」の手法に基づく生徒指導の教育実践があります。
この「カウンセリングマインド」の教育用語は、アメリカ生まれの生徒指導上の教育理念と思われがちですが、この用語自体、和製英語であり、「(自ら)なる」を人育ての基盤とした我が国の教育土壌・風土が生んだ、いわば逆輸入の教育理念の代物(しろもの)なのです。
『走れメロス』に見る「期待」される厳しさ
しかし、なぜ「期待」が、「叱責」はともかく、「厳しさ」につながるのでしょう。その一例を、太宰治の『走れメロス』に見ることができます。
「私は信頼されている」。青年メロスは自分の命を顧みないで、夕陽に向かって死力を尽くして3日間走り続けます。自分を信じ、待ってくれている竹馬の友セリヌンティウスのために。「信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わないは問題ではないのだ」。
メロスが引きずられた「わけのわからぬ大きな力」こそ、他者から自分への信頼に基づく「期待」という大きな力でした。
明治以降の我が国の子育ては、どちらかと言えば「叱責」という「厳しさ」に寄りかかっていました。しかし、「期待」されるという厳しさを、もっと求めてもよいのではないでしょうか。
基本は「挨拶」のエール
では、「期待のエール」とは何でしょう。
その第1の基本は、「おはよう」、「いってらっしゃい」、「おかえり」、「おやすみ」などの日頃の挨拶(あいさつ)のエールです。
「挨」は心を開く、「拶」はあなたを受け入れるという意味です。心理学的には「挨拶」は、エチケットの範疇を超えた教育的行為(educational behavior)なのです。
今日で言えば、スマホに依るメールの交換でしょう。子どもからの返信は、「大丈夫」、「わかってる」、「オーケー」などの3文字、5文字返信かもしれませんが、それで良いのです。
「雨ニモ負ケテ、風ニモ負ケテ」みる勇気も
しかし、期待のプレッシャーで押しつぶされそうになる時もあるでしょう。そんな時は思い切って、「雨ニモ負ケテ、風ニモ負ケテ」みる勇気も大切です。
本来は「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」と、親として後押しするところです。しかし、「雨ニモ負ケテ、風ニモ負ケテみると楽になるよ」との声もかけてください。
前回に引き続いて今回も、家庭教育(庭の教え)の大切さを詠った「明治天皇御製」を掲載します。
「若竹の生ひゆく末を思う世に 庭の訓(ヲシエ)をおろそかにすな」(若竹の成長してゆくその末のことを思う時、家庭の教育をおろそかにしてはならない)
新富 康央(しんとみ やすひさ) 國學院大學名誉教授/法人参与・法人特別参事 |
学報掲載コラム「おやごころ このおもい」第23回